映画酒場、旅に出る 第3回
2014.08.28
映画をめぐる小さな物語をつづった個人冊子『映画酒場』発行人であり、エディター&ライターの月永理絵による旅日記。(月2で更新中)
7月8日
今日は夏とは思えない寒さ。昨年日本に帰国したAさん(友人の元留学仲間)がパリに来ているということで、三人でお昼を食べることに。パリに来て初めての外食だ。場所はパリ3区にあるアンファンルージュ(Marché des Enfants-Rouges)という市場。一応野菜なども売っているものの、クスクスやアフリカ料理、イタリアン、和食など、いろんな国の料理屋が集まる屋台村のような雰囲気になっている。ほとんどが外のテラスで食べるスタイルだが、今日はゆっくり話をしたいということでフレンチスタイルのレストランに入り、鶏肉料理を頼む。その量の多さに圧倒されるが、鶏肉はもちろん、付け合わせのじゃがいもや野菜がおいしい。
秋に博士論文の提出を控えているAさんは、口頭試問のあとにおこなう「ポ」というお祝いについて悩んでいるという。フランスでは口頭試問が終わったあとに、シャンパンやちょっとしたおつまみを用意して審査員の先生たちや来てくれた人たちと簡単な打ち上げをするらしい。その「ポ」をどこでやったらいいのか、何をどのくらい用意すべきなのか、ということが心配なのだそうだ。いずれ博士論文を出す予定の友人とひとしきり「ポ」について盛り上がっていたが、私はそれよりも「ポ」という発音がおかしくて、「ポには何人くらいくるんだろう」とか「ポではやっぱりシャンパンは必要だよね」と真面目に話しているふたりにちょっと笑いそうになる。結局「ポ」の綴りを聞きそびれてしまった。
ご飯のあとAさんと別れ、近くのポンピドゥーセンターに向かう。ところが歩いているうちに突然のゲリラ豪雨に遭遇。なんとかポンピドゥーセンターにたどりつくと今日は火曜日で休みだということが判明する。屋根の下で雨宿りするも、激しい雨で視界は真っ白。気温もぐんぐん下がり、体がガチガチと震えてくる。あわてて近くのカフェに飛び込み、友人はホットココアを、私はホットワインを頼む。まさか夏のパリでこんなものを飲むとは思わなかった。
雨がやんだあとは、レ・アールの地下にある映画専門の図書館へ。その名も「フランソワ・トリュフォー図書館」。映画関連の書籍のほかにDVDも貸し出している。そこでフィリップ・ガレルのDVDを何本か借り、夕食のあと早速『自由、夜』を見る。
7月9日
今日も朝から雨。友人は午後に約束があるというので、私は先日行ったル・シャンポへジョン・フォードの『太陽は光り輝く』を見に行くことに。18時の回を目指して向かったのだが、ル・シャンポに着いてみるとどうも様子がおかしい。受付でチケットを求めると、残念そうな顔で張り紙を指差される。そこに書かれた文字をなんとか読み解くと、毎日14時、16時、18時と3回上映しているが、水曜は16時の回のみの上映とのこと。がっくりしながら雨のなかをとぼとぼと帰宅する。そういえば時間を調べたパリの情報誌「パリ・スコープ」は先週号だった。帰りがけにスーパーでシェーブルチーズ(山羊のチーズ)、サラミ、パン屋でバゲットを買い、にんじんのサラダと一緒にひとりでワインを軽く飲む。こういうぱっとしない気分のときは煮込み料理をつくるにかぎる。明日の夕食用にと、豚の骨付き肉と野菜にシトロンコンフィを入れてゆっくり煮込みながら、明日のリベンジを誓う。
7月10日
昨日の反省をいかし、劇場のHPを確認してから再びル・シャンポへ。ようやく『太陽は光り輝く』を見ることができた。この時代のアメリカ映画は、言葉がわからなくてもだいたいのストーリーがわかるのでうれしい。南部戦争から数十年たったアメリカの南部、老判事プリースト(チャールズ・ウィニンガー)は判事の再選を控えているが、北軍派の対戦候補を相手に少々苦戦している。そんななか、娘のように可愛がっているルーシーの実の母親が瀕死の状態で街へ帰ってくる。彼女は元娼婦という身の上から、ルーシーの母親であると名のることもできずにいた。やがて息絶えた彼女のために、プリースト判事は街で葬儀を執り行う。しかし元娼婦の葬儀には街の誰も参加しようとしない。奇しくもその日は判事の再選日。たったひとり黙々と歩き続ける判事に、街の者は嘲笑をなげかけるが、やがて昔の仲間たちがひとりまたひとりと葬列に加わっていく……。この葬列シーンの素晴らしさに思わず涙があふれてきた。まっすぐに前を見て歩き続けることで自分の意思を表明する男。その沈黙の歩みが次々と仲間をつくっていくのだ。
映画を見てすっかり幸せな気分になった一日だったが、夜にはまさかのハプニングが待ち受けていた。夜ご飯を食べた後、急に目や鼻、そして耳にまで猛烈なかゆみを感じはじめたのだ。パリに来てから花粉症の症状が出ていたのでそのせいかな、と思ったがどうもおかしい。アレルギー用の薬をのんでもまったくおさまる気配がない。瞼が真っ赤に腫れ上がり鼻からはまったく息ができない。思い当たる原因はデザートに食べた桃。パリでよく売っている平らな形の桃が美味しくてたくさん食べたのだが、もしかすると突然桃アレルギーが発症したのかもしれない。仕方なくベッドに横になるがかゆみがひどくて寝られない。
7月11日
朝起きると、昨日のかゆみはなんとかおさまっていた。しかし瞼はまだ腫れたまま。今日はおとなしくしていようかと思ったが、午後になるとだいぶ気分も楽になったので、シネマテーク・フランセーズでアンリ・ラングロワ展を見に行く。シネマテーク・フランセーズの館長をつとめていたラングロワは、ヌーヴェルヴァーグの作家たちにも大きな影響を与えた人だ。会場にはラングロワの年譜とともに貴重な写真がたくさん展示され、そして彼が上映した映画の上映記録も一部見ることができる。ちょうど5月に閉館した吉祥寺の映画館バウスシアターの記録本(『吉祥寺バウスシアター 映画から船出した映画館』)をつくったばかりだったので、実際の映画の上映記録を見ることができたのがなんともうれしかった。ラングロワがどんな素晴しい仕事をしたのかということはもちろん年譜や解説にも書かれていたのだろうが、シネマテークでは一日にどんな映画をどんな順番で上映していたのか、無味乾燥な記録にこそ彼の思想がにじみ出ているようにも思えた。
7月13日
今日はポンピドゥーセンターへ企画展を見に行く。歩いてアパートまで帰っていると、途中の道で次々に走っていくパトカーに遭遇する。明日14日は革命記念日の軍事パレードがあるのでその予行練習かな? などと思っていると、バスティーユ広場付近から大きな声が聞こえてくる。広場に集まるものすごい数の人々。その垂れ幕に書かれた文字を見てハッとする。それはパレスチナ支援のためのデモだった。数日前から始まったイスラエルのガザ空襲に対して、パリに住むアラブ人たちを中心に大規模なデモが発生していたのだ。移民国家のフランスにはアラブ人たちも大勢住んでいるのはよく知っていたが、まるでパリ中のアラブ人たちが集まったかのようなすさまじい迫力だ。かつて革命が起こったこのバスティーユ広場で、人々はみな大きな声をあげ必死でパレスチナへの支援を訴えている。塔に登った数十人がパレスチナの旗を掲げるとあたりからは大きな拍手と歓声があがる。
ガザ空襲については私もネットニュースで見て衝撃を受けていたが、このデモを目の当たりにするまで、どこか他人事のように感じていたのかもしれない。怒り、驚き、恥ずかしさ、いろんな感情が混ざりあい、私はただ呆然としながらデモの様子を見ていた。さきほど見かけた武装した警官たちが広場のまわりをぐるりと囲い込んでいる。やがてデモから離れると、私も友人も何を話していいのかわからないまま家までの道を歩き続けた。さきほどのデモが噓のように閑散とした街を歩きながら、私たちはぽつりぽつりと話しはじめた。ガザのことから、やがて私がパリに来る前日に官邸前でおこなわれた日本でのデモについても話が及ぶ。そうだ、私たちはもっともっといろんなことを話さなければいけない。
月永理絵
1982年生まれ。映画関連の書籍や映画パンフレットの編集を手がける。
2013年11月に、映画をめぐる小さな物語をつづった個人冊子「映画酒場」を創刊。「映画と旅」を特集した第2号も発売中。
「映画酒場」公式Facebook:https://m.facebook.com/eigasakaba