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ヘテロトピア通信 第12回

2016.09.19

ヘテロトピア 通信

2014年からはじまった「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の情報発信ページ。選考委員ら(井鯉こま、石田千、小野正嗣、温又柔、木村友祐、姜信子、下道基行、管啓次郎、高山明、田中庸介、中村和恵、林立騎、山内明美、横山悠太)によるコラム “ヘテロトピア通信” も更新中。 (題字/鉄犬イラスト:木村勝一)


鉄犬ヘテロトピア文学賞についてはこちら

<バス>text by 井鯉 こま

 
 小さい子供を連れていると、雨の日の混んでいるバスなんかはまず乗る前から気が重いです。
 私は二人の子供を連れています。繊細な上の子は緊張しいで、家を出る前に何度もトイレに行ったのに、「トイレ……」と遠慮がちに切り出しますし、お調子者の下の子は、家を出る前に便座に座るだけでいいからとこちらが懇願しても、「しぃ、ない!」と断固拒否し、案の定、車窓の向こうに面白いものでも見つけたみたいに「あっ、しぃ!」といって股をおさえたりします。
 これが電車ですと、次の駅にトイレがあるかも、とあわてて降りますが、バスとなると途中下車するのはけっこう嫌だなあと考えてしまいます。雨の中、二人を抱えて見知らぬバス通りをトイレトイレと駆けずり回るのかと思うと、降車ボタンを押すのがためらわれる。
 子供たちは切羽つまってくると阿鼻叫喚レベルで泣きますし、私は取り乱しますし、はたから見ると「どこまでこのおばさんは不手際なのか」といったふうで、車内秩序の回復を早急に求められている気がするのも、こちらの気のせいではないでしょう。みなさん密集しているのに遠巻きって感じです。やはり私はなんのあてもなく次「とまります」の降車ボタンを押すしかないのであろうか、と思います。しかし異郷ならばどうであろうか、とも考えたい。記憶の中のヘテロトピアへ飛んで、しばらく戻りたくなくなります。そうもいってられませんが、いうだけならいえるというもの。

 十四年前、友人と二人でラオスのバスに乗りました。ラオスのバスといっても、日本の路線バスが役目を終え、中国に渡り、車内に中国語のプレートをくっつけたままスクラップ寸前まで使い倒されたようなおんぼろバスです。目的地まで、予定で3時間ほど。ラオス語で書いてあるのはたぶん行き先です。バスは数々のお色直しを経たのだと思いますが、降車ボタンには「とまります」の日本語が残っていました。
 道路も日本が整備したというもので、雨季の田園地帯というか、湿地帯を、まっすぐな二車線が走っていました。車内は雨漏りしているし、通路にまで人がびっしり座り、人のあいだにはナマズやカエルの入った大きなポリバケツ、鶏がくうくう鳴いている鳥かご、そのほか乗り切らない荷物はバスの屋上へ。

 私と友人の前の席に、2歳くらいの男の子と若いお母さんがいました。男の子はお母さんに似て目がクリクリしていて、いつも静かににこにこしています。お母さんの膝に乗って、肩越しに私たちをにこにこ見ているときもあれば、お母さんの横に座るときもある。そのとき気づいたのですが、この男の子、ズボンもパンツもはいていない、尻丸出しなのです。バスのイスは日本時代のものではなく、ラオス仕様になっており、背もたれと座面のあいだに隙間があって、そこから尻のようすがよく見えます。
 私たちは自分たちのザックを足元に立てて置いていました。男の子の尻が、友人のザックのファスナーのつまみを下に敷くように挟み込んでいました。友人がそっとファスナーのつまみを抜きながらくすくす笑っていると、なんの前触れもなく、男の子が静かに静かに放尿したのです。誰も何も気づいていない。お母さんも何も気づいていない。おしっこをした男の子ですら自覚してないんではなかろうか。尻は黙して動かず、のどかな時間が流れます。おしっこもまたゆっくりと座面をつたい、友人方面ではなく私方面にのびてきて、荷物を静かに浸していきました。
 バスは途中で故障しました。私たちは雨季の湿地帯を眺めながらあてどなく道路で過ごしました。2時間くらいでしょうか。友人と「笑うしかないねえ」と笑っていたところ、乗客たちがなんとなく男性陣と女性陣にわかれていることに気がつきました。だだっ広い草原のような湿地帯。シンという巻きスカート姿の女性たちが、ゆるゆると湿地帯に入り、全員が知り合いとも思えないのですが、輪になっておしゃべりでもしているかのようです。なるほど用を足しているようだ。しかし私と友人はズボン姿。
 雨季の空のもと、私と友人は交代で湿地帯に入り、不安と隣合わせの開放感を味わいました。友人が用を足しているあいだに、私は気さくに声をかけてきてくれたカムさん一家と話しました。行き先が同じだとわかったカムさんは、私と友人をお家に招待してくれました。嬉しい出会いです。しばらくすると、米屋のトラックが通りかかり、私たち乗客はぞろぞろとそちらへ乗り込んでふたたび目的地をめざしました。

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井鯉こま(いこい・こま)
1979年生まれ。神奈川県出身。2014年、『コンとアンジ』(筑摩書房)で第
30回太宰治賞受賞、第2回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞。

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