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ヘテロトピア通信 第9回

2016.05.02

ヘテロトピア 通信

2014年からはじまった「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の情報発信ページ。選考委員ら(井鯉こま、石田千、小野正嗣、温又柔、木村友祐、姜信子、下道基行、管啓次郎、高山明、田中庸介、中村和恵、林立騎、山内明美、横山悠太)によるコラム “ヘテロトピア通信” も更新中。 (題字/鉄犬イラスト:木村勝一)


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<蚊帳を繕う>text by 中村和恵

 

 複数の場所の記憶が重なり合う人生を、わたしたちは生きていく。移り住む人々、歩いてくる足、去っていく魂。こうしたこと、つまり動いていくこと、動きを記憶すること、その足跡を伝え、語り直し、語り続けていくことこそが、人間の営みの常であり核であるという確信を、わたしは日に日に、つよめていく。ひとつところに留まっていても、いや留まって目を凝らすからこそ、そこに堆積している異なる場所、異なる時間、異なるものの、痕跡を読みとることができる。ヘテロトピアの発掘と創出、それはヘテロトピアをうたうこと・物語ることと、重なり、ひとつになる。ひとにとってそれは、ひとつであることだから。うたわれないもの語られないものは、消えていく。でもそれらがまた発掘され、ちいさな歌をうたい、わたしたちに蘇る、そういうこともある。

 いつもあたりまえにわたしたちの足元にあり、なのになぜかまるで無視されがちなトポスについて、このように数行書いたあとで、じゃあね、というかわりにわたしは、唐突に、蚊のことを想起する。遍在する虫。やっかいで嫌われる羽虫。病気を媒介し真剣な駆除の対象となる生きもの。多くの昆虫たち、鳥たち、ちいさな獣たちが日常の糧とするタンパク質。ツンドラ地帯からジャングル、砂漠、山地まで、あらゆるところに存在しているくせに、手のひらで押しつぶせばすぐに死んでしまう。眠りかけた耳に届く羽音に、記憶が動き出す。

 子どもの頃、夏の原っぱで遊びほうけて草の匂いにまみれて夕方、家に帰ると、庭には蚊柱が立っていた。蚊柱の蚊は刺さない。わたしは経験上そう信じているのだけど、ほんとうはどうなんだろう。土地によって蚊の種類は違う。北海道の蚊は薄色でふわふわしてるくせに刺されるとけっこうかゆい。たくさん刺される。泣きたくなる。でもしばらくすると、けろっと直ってしまう。東京の藪蚊は黒白しましまで兇悪、刺し跡はたちがわるく、膿んだように水膨れができていつまでも赤い。いらいらする。サモアの蚊は強烈。蚊取り線香をものともせず刺しにくる。マルティニークの大きな蚊は叩かれて血を流したあとも飛び立った。カムチャッカ半島のコリャーク人はテントに用いて燻され薄くなったトナカイの革で、蚊に刺されないよう赤ん坊をすっぽり覆う夏衣をつくるそうだ。

 世界中で蚊に刺されて、まあよくマラリアにもデング熱にもかからなかったものだとおもう。蚊よけスプレーはディートがたっぷり入ったワルワルなのも、白樺水と薄荷のすてきなのも、ティートリーオイル入りの自信作も、みんな試した。蚊取り線香も、電磁蚊よけも、みんなやった。間違いなく一番効くのは、蚊帳。蚊を遠ざける網の中で眠る。こころ安らかに。

 その網に穴が開いていたことがあった。タヒチの首都パペーテの、バナナ畑の上にある小屋。作家ライ(ミシュー)・シャズの家の離れで、わたしは眠ろうとしていた。ふと見ると、蚊帳に穴が開いている。やれやれ。起き上がってちいさな電灯の光で蚊帳を繕っていたら、ライが戸口からのぞいた。「なにやってるの? なになに? 動かないで! ねえとってもおもしろいから! あなたフェアリーみたいよ!」妖精じゃなくて妖怪だよ。いずれにせよひとでなしよ。説明は明日ね。蚊帳さえあれば、たいていの暑い夜は幸せ。世界中どこでも。いつでも。いくつでも。

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中村和恵(なかむら・かずえ)
ことばつかい。「世界」の端っこやマイノリティ、日本人のポジションについて、考えながら歩き書く。著書に詩集『天気予報』(紫陽社)、エッセイ集『地上の飯』(平凡社)、『日本語に生まれて』(岩波書店)、共著論集『世界中のアフリカへ行こう』(岩波書店)、翻訳にアール・ラヴレイス『ドラゴンは踊れない』(みすず書房)、トレイシー・K・スミス『火星の生命』(平凡社)などがある。いま『世界』(岩波書店)に自伝エッセイ「イングリッシュ・レッスン」を、ウェブマガジン「ウェブ平凡」に「ついの住処」を不定期連載中。明治大学教授。

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