Top > Column一覧 > ヒロイヨミ社のわたし 2

ヒロイヨミ社のわたし 2

2014.09.29

ヒロイヨミ 社

ヒロイヨミ社。山元伸子によるリトルプレス。言葉を読むための新しいかたちを求めて、紙や印刷にこだわった冊子などを製作・発行。2014年12月にSBBで始まる展示フェアに向けた創作日記を連載中。

 

 あるひとが、電車で本を読んでいた。気づかれないように、誰かの背中ごしに、すこし離れたところから、じっと見ていた。文字を追うしずかな眼差し。ページをめくるしなやかな指。長い前髪は黒いベールのよう。それは特別な光につつまれた、侵しがたい、秘密の儀式のようで、どきどきしながら見つめていた。見ているわたしと、それを知らずに本を読んでいるひと。いまその光景をあたまのなかに描いてみると、なぜだか自分はちいさな女の子で、そのひとは年上の男の子になっている。とても年老いたひとのようにもみえる。夏の暑いさかりのことで、彼は麦藁帽子をかぶっていた。赤い表紙の本だった。

 どうやって言葉を集めるのですか、とたまに聞かれる。答えるのはむずかしい。「集める」のではなく、「集まってくる」のだ。言葉はいつでも、むこうからやってくる。それが大切な出会いであることは、読んでいるとからだが痺れてくるから、すぐにわかる。言葉によって、自分のなかの闇が照らされる。わだかまっていたことも、ふたをしていたことも、言葉にできなかったことも、明るみに出る。本にはいつでも答えがある。「わからない」こともまた答えだ。やがて闇は光に変わっていく。
 言葉との邂逅を、みずからのあずかり知らない、神聖なもの、恩寵のようなものだと思っているので(出会いとはことごとく、そういうものではないだろうか)、あせったり、求めすぎたりしては、だめなのだ、と思っている。待つこと。待っていることを忘れること。信じること。

 図書館のなかをふらふらとさまよう。棚に並んだ本の一冊一冊を、ひとのようにも感じる。みな何かを内に秘めている。呼ばれたような気がしたら、そっと手をのばして扉を開ける。紙の手ざわり、匂い。ページをめくる音。文字の表情。余白の白さ。たちまち五感がざわめきだす。胸のときめきを抑えきれなくて、背の丸みをそっと撫でたり、口に指をすべらせたり、喉の奥をのぞきこんだり。それから言葉に耳をすませて、ちいさな声で、ひそやかな会話を交わす。ほかの誰にも聞かれないように。

 このところ、遠いところからやってきた言葉が気になっている。たとえば、西行。「心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」。長く愛されてきた言葉を読むことは、それを愛してきた人びとのこころも読むことだ。その輪のなかで、ともに読む。おなじ鳥を、月を、空を見る。これはいったい、何度目の秋なのだろうか。これらのものたちは、どれだけの目で見られてきたのか。目眩にも似た感覚におそわれる。そのとき、すべてがなつかしくて、いとおしくてたまらなくなる。ほんとうは、この世にずっといて、こういううつくしいものたちを見ていたかったのに。
 だから、最近はひとりでいても、あまり孤独を感じない。本とともに生きるものにとって、友人は、生きているひとに限らない。かつて生きた人びと。これから生きるであろう人びと。ひとしく本につながれている友人たち。彼らに思いを馳せるたびに思う。この地上での与えられた時間のあいだに、わたしはわたしだけの幸福な読書をしよう。読むことは、運ぶこと。「作品は、書かれただけではそこまで運ばれてはいかない。」(若松英輔) わたしもまた、言葉をつぎのひとに運ぶひとりになりたいのだ。

  来た、来た。
  ひとつのことばが来た、来た。
  夜闇を縫って来た、
  輝こうとした、輝こうとした。 
 
      (パウル・ツェラン)*

 これは電車で本を読んでいたひとが教えてくれた言葉。今年のはじめに届いた手紙に書いてあった。いつものように、すこし傾いだ文字で、濃紺のインクで。くりかえし読んでいて、そのたび、春の光が胸の奥に射しこんでくるようなあたたかさを感じる。本のようなひとからの贈りもの。こんなふうにお守りになる言葉を、わたしも誰かに届けられたらいい。

 

*飯吉光夫『パウル・ツェラン ことばの光跡』(白水社)より

↑ページトップへ