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鉄犬ヘテロトピア文学賞

「鉄犬ヘテロトピア文学賞」とは・・・

以下の精神を刻みこむ作品を選び、その作者の世界に対する態度を支持するものです。
それはまた、グローバル資本主義に蹂躙されるこの世界に別の光をあて、別の論理をもちこみ、
異郷化する運動への呼びかけでもあります。

・小さな場所、はずれた地点を根拠として書かれた作品であること。
・場違いな人々に対する温かいまなざしをもつ作品であること。
・日本語に変わりゆく声を与える意志をもつ作品であること。

ジャンル不問。日本語で書かれた文学作品、日本語の想像力に深く関わる作品を選びます。

選考委員(五十音順):
小野正嗣、温又柔、木村友祐、管啓次郎、高山明、林立騎、山内明美

鉄犬ヘテロトピア文学賞事務局

 

第一回受賞作

下道基行『torii』(ミチラボラトリー)
中村和恵『日本語に生まれて』(岩波書店)

 

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< 選考委員選評 >(五十音順)

選評/小野正嗣

 自分が日常使用している言語を用いて、思考や感情を文章で表現するということは決して自明ではない。植民地化の暴力にさらされた世界の多くの地域では、人々はむしろそのなかに生まれたのではない言語で表現活動を行なわざるをえない。中村さんの本を読んでいるとそんなことを考えさせられます。日本の植民地主義の痕跡を思いも寄らぬかたちで台湾やサハリンに見出す下道さんの写真は、私たちの視線の組成を変化させ、日本のなかにおける異質な要素へと目を向けさせてくれます。

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選評/温又柔

 『日本語に生まれて 世界の本屋さんで考えたこと』の存在は、ひたすら頼もしい。
 〈いま語るべきことをつよく持っている人は、やはりいままで語れずにきた人、耳を傾けられずにきた人だと思う〉。

 鋭い批評性に裏打ちされた内容でありながら、中村和恵さんが編む文章は、ひらがなの現れ方が何ともまばゆくて、目で眺めていて楽しい。つい声に出してみたくなる。中村さんは、日本語に生まれ日本語に棲みついた大抵のひとなら当たり前のように漢字にする言葉(例「今」「思う」など)を、ひらがなで書く。たぶん、〈ことばの世界の根源にあるのは歌や物語を繰り返し語ってきた人の声なのだとつよくおもう〉ひとならではの、音としての言葉にたいする感性が、そうさせるのだろう。

 わたしが特に憧れるのは、〈つよくおもう〉と六つ並んだひらがなから放たれる、柔らかな、そう、〈たわめども折れず〉という日本語がよく似あう、凛々しい輝きである。

 『torii』は写真集だ。
 何の? 鳥居の。それも、現在の日本の国境線の「外」にある鳥居の。鳥居(およびその痕跡)が「ある」ということは、そこが、いつかは日本の国境線の「内」だったという証だ。旧南洋、旧満州、ロシア・サハリン、韓国、そして(私が個人的に思い入れのある)台湾。

 下道基行さんの目(写真)をとおして、toriiを、かつての日本の痕跡を、わたしは見つめる。それらを、なかった、として抹殺するのではなく、あった、とするにしても、そこに過剰な意味づけ(そう、自虐的な「批判」や盲目的な「賞賛」といった)をするのではない。ただ、そうだった、と受け容れる。

 風景に、日常に、現在に溶け込み、そこで暮らすひとびと――かつて「日本人」と呼ばれたひとや、そのようなひとを親に持つひと、それを歴史の教科書でしか知らないひとも――の傍らに佇むモノとしてのtoriiを見つめる。そうするうちに、風がとおりぬけたあとの清々しさを感じる。

 この写真集と出合ったときに直感した。わたしはこれからの人生で、日本語と台湾という島の、のっぴきならない関係を思い、狂おしくなるたびに、この1冊を開き、見つめることになるのだろう。

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選評 世界の編み直しのために/木村友祐

 勝手に賞を創設し、勝手に候補をあげ、勝手に賞を贈る。野っ原に勝手に草が生えてきて花までつけちゃったみたいな、そんな雑草的成り立ちではじまった「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の第一回受賞作。下道基行さんの『torii』と、中村和恵さんの『日本語に生まれて』。どちらも文学的想像力の始点となる「世界を見る構え」に大きな刺激と示唆を与えてくれるものだ。

 下道さんの『torii』は神社の鳥居を写した写真集である。ふだん神社は、国内においては喧騒から逃れられる安らぎの場としてイメージされることが多いだろう。しかし、その象徴としての鳥居が国外に、現在はアメリカの自治領であるテニアン島や台湾、中国、ロシアのサハリンにあるとどうなるか?(韓国にもあったが、今は痕跡をとどめるだけ) 写真集のページを繰りながらぼくは、かつての日本がめざした覇権主義の爪痕を目撃してざわざわした気持ちにさせられた。同時に、支配者側・被支配者側を問わず、その鳥居の周辺で暮らした現地の人々のことにも想像がふくらんだ。本書は、「鳥居」というただひとつのモチーフだけで、現代日本人の記憶から切断され忘却された過去と、その遺物の現在をも鮮烈に浮かび上がらせる。時間をかけ、足で探し求めた労作・問題作だ。

 中村さんの『日本語に生まれて』は、海外の様々な本屋の話を入り口として、日本をふくむ今の世界の有様にまで思索がおよぶ。その思考はしなやかで強靭。楽しく読みやすい文章ながら、こちらもいつしか著者の思考をなぞるように、想像力を「ストレッチ」させて読んでいる。するとふいに、何度も、からだが震えだすほどの言葉に出会う。たとえば、世界の中央を自認する大国/支配者側の傲慢さを前にして一歩も引かず、つねに支配されてきた人々の側に立って繰りだされる言葉。また、「いまこそ文学なのだ」という言葉に、震災後の無力感をまだ思いだすぼくなどはハッとさせられ、心が奮い立つ。本書にはそこかしこに、今とこれからの世界を考えるうえで大切な視点がちりばめられているのだ。未読の人には、ためしに本書の「はじめに」だけでも読んでみてと言いたい。

 ぼくはこの賞を、「世界の編み直し」のためにポーンと野に放られた試み/種だと思っている。風に吹かれる文学賞。今回の受賞作をもってその第一歩とすることが、ひそかに誇らしい。

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選評/管啓次郎

 第1回「鉄犬ヘテロトピア賞」はふたつの作品を選んだ。ぼくらが選んだのだろうか? ちがう、2冊の本が、みずからを選んだのだ。それは賞とすら関わりがなくて、著者たちの心にあるとき兆した意志が、それ自身を延長してゆく線を求めたのだと思う。2冊になったことは、幸運な偶然でもあり、別の角度からは必然とも思えた。それは下道基行の本が通常の意味では「写真集」だからで、ただしこの写真が語っているのは言語が構成する国家理性の裏面であり、写真を媒介としてふたたび言語化しなければその実質が見えてこないような歴史的事実だからだ。一方、中村和恵のいつもながらの骨太なユーモアに包まれたエッセー集は、われわれが共有すべき世界観を、直接に鮫皮のような荒々しさで削る。言語的に造形する。「人間は次の氷河期まで持つんですかね、リス君」ぼくはいつでも「持たない」に賭けるが、この先でわれわれは、救いのないペシミズムと、なおそれでもというオプティミズムの調停を図らなくてはならない。イメージと言語によって。暗い、暗い今日だ、明日だ。しかしそこに「希望」を作り出すのがヘテロトピアのみずからに誓った使命で、ぼくらはこの活動をしばらく続けようと思う。下道くん、中村さん、ようこそ。群れない共闘の小さな前線に、ぜひ参加してください。

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選評/高山明

 『日本語に生まれて』の中村和恵さん、『torii』の下道基行さん、「鉄犬ヘテロトピア文学賞」受賞、おめでとうございます。

 賞の名前に“ヘテロトピア”という語が入っている事からも分かるように、この賞は昨年フェスティバル/トーキョーで上演した『東京ヘテロトピア』の延長線上にある、と僕は考えています。従って、演劇的な見方で候補作を読ませてもらいました。(実際のところ僕にはそれしかできない。)お二人の作品は、エッセイと写真集でジャンルこそ異なりますが、非常に優れた「ドラマトゥルギー」を持っているという点で共通していると思いました。では「ドラマトゥルギー」とは何か? 通常「劇作術・劇作法」などと訳される演劇用語ですが、二つの作品ともいわゆる劇を作ろうとしているわけではなく、むしろ一般的な意味での劇的さからは離れようとしているように思われます。それでもドラマトゥルギーという言葉を思い出してしまったのは、『日本語に生まれて』では世界中の本屋さんに、『torii』ではかつて日本人が住んでいた・占領していた場所に残る鳥居(またはその残骸)に、それぞれの視点から世界に切り込みを入れ、その切れ目から「歴史」を開いて見せてくれたからに他なりません。現実世界への切り込み方の強さとユニークさ、切れ込みを入れるだけで終わらないどころか、そこから細部に向かって世界をひっくり返していくような展開力には恐れ入りました。しかもそこで扱われている「歴史」は、この賞が支持する「小さな場所、はずれた地点を根拠として」いる。その精神と方法の徹底性、さらに実現されている表現の豊かさにおいて、まさに“ヘテロトピア”という名を持つ『鉄犬ヘテロトピア文学賞』に相応しいと思いました。このような作品に巡り会えたことに感謝いたします。

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選評/林立騎

 候補作・受賞作のすべてが、書き下ろしではなく、何年にもわたって続けられてきた作業をまとめた作品だったことに、今必要とされている「変わりゆく声」のあり方が透けて聞こえるようでした。短時間で評価・判断・決断へ至るのではなく、判断を留保したままに、あるいはその都度の判断はあっても結論を急がず、遠い過去と未来を見据えて「旅」を続ける「声」こそが、必要とされているのではないでしょうか。鉄犬ヘテロトピア文学賞は、「文学」として公認すべき作品を選ぶのではなく、ややもすれば「自然」で「美しい」ものばかりが肯定されかねない表現活動にヘテロトピア=異質な場所をひらき、わたしたちの言葉を柔らかくひろげる作品を見つけ出す過程でした。

 下道基行さんと中村和恵さんの受賞作には、表現のかたちは異なりながらも、なにか共通する姿勢を感じました。長い時間をかけて、みずからの手足を動かし、ひとと交わり、旅を続けること。「今、ここ」と歴史を結び、その結びつきを見つめ直すこと。主題と方法のあいだには必然的な照応があり、だからこそ、「小さな場所、はずれた場所」でものをつくり、「場違いな人々に対するまなざしをもつ」作品になっていたように思います。

 中村和恵さんの『日本語に生まれて』は、言葉の根源的な政治性、野性を捉え直す作品として読みました。なによりもひとを支配し、しかしまた解放するものとしての言葉は、わたしたちが生きていく上での時間感覚をも規定します。日本語という言葉の、それが生む神話と物語の時間は、あまりに短期的で近視眼的になってしまったのではないか。そしてその時間感覚のもたらす帰結が2011年に明らかになり、わたしたちは今、別の時間をつくるための、別の日本語を求めているのではないか。言葉と時間の別の結びつきを欲しているのではないか。「逃れようのない事実が、わたしたちの足下に、日々降り積もっている」(179頁)、そのことに正しく揺さぶられ、今の社会をこれからの時代へうつしてゆくために、言葉そのものの中に降り積もってきた知恵と実践をふたたび見つめなおすことを、この本はうながしてくれます。

 下道基行さんの『torii』は、時間的、空間的な「境界」そのものを主題にした、まさにヘテロトピアへのまなざしに溢れた作品ですが、この本がみる者の思考を、そしてこれからの表現を刺激するのは、テーマだけでなく、写真表現そのものの質が高いからだということを、忘れてはいけないように思いました。言葉にせよ、写真にせよ、そこから聞こえる「声」の質感によってこそ、ひとは芸術を通じて快楽を感じ、同時に政治的な訓練を積むのだと思います。別の場所、別のあり方への知覚がひらかれるような「声」をもたらすのは言葉だけではなく、だからこそ日本語は、みずからを揺さぶるものたちへと、常にひらかれていてほしいと思います。

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選評 TORIIと「日本語」/山内明美

 文学賞というタイトルなのに、「どうもはみ出ている」と思われるだろうか。よく見てほしい、形容詞がついている。〈ヘテロトピア文学〉である。既存の文学へ影響を与える作品も、この文学賞の対象にしよう、ということになった。文学を取り巻くエピステーメーを逆照射してみることなのだろうか、と勝手に解釈した。願わくば、そんな言説空間さえはみ出したい。こうして自分が選評していること自体が、まったくヘテロトピアである。

 奇しくも、と言うべきなのか。やっぱり、と言うべきなのか。第1回目の今年は、コロニアルにまつわる2作品が選ばれた。向き合うことを拒みつづけてきたこの国は、もっとも忌々しいかたちで、コロニアルな混迷へと自ら邁進してゆくのだろう。そんなことを予感させもする。

 ふたつの作品を横断しながら思ったことは、もはや、“混在郷”ともおぼしき植民地以後の風景が際限なく広がっていること、だった。

 写真集でありながら、下道さんの作品は、まるで時間の呪術をまとった〈かたり〉だった。近代戦争が持ち込んだ遺物が、鳥居だったということの異様さもさながら、鳥居の中にぽっかり浮かんだ〈穴〉が依然として、そこに、ある。この〈穴〉は、やがて、わたしたちを引きずり込むのかもしれない。いや、すでに引きずり込んでいるのだと思う。

 中村さんは、世界の端っこを旅しながら、その土地を読む作家である。いつでも立ち戻ってくる日本語に、わたしたちの世界の成り立ちを思った。思えば、日本語は、“社会”だの“思想”だの、溢れんばかりの西洋翻訳語の群れであり、華夷秩序のただ中でできあがった、文字どおり縦横無尽の言語だった。津々浦々の世界と日本語をつなぐ言葉の世間師の仕事がぎっしりつまっていた。

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< 受賞者の言葉 >

下道基行

 突然やってきた控えめなメールで、自分が鉄犬へテロトピア文学賞を受賞したことを知りました。『僕の活動をちゃんと見てくれる人がいてくれている』ことに、感動と感謝の気持ちでいっぱいです。

 その後、新聞にも取り上げられたりSNSにも受賞の情報が流れたので、友人たちに頻繁に「おめでとう!」と言われますが、それと同時に「で、なんの賞なの?」と質問も受けます…。そんな時、僕は、「この賞は、小さな声に耳を傾けるような作品に送られる賞みたいよ。」と話しながら、自分の作品自体が小さな声であり、それをさらに拾い上げてもらったような気持ちになります。

 2006年からライフワークとして行なってきた旅が、ひとつにまとまった写真集。自費出版で1000部作ったこの本をいろいろな人に見て欲しいと思い、本屋に持ち込みながら、本屋さんと素敵な関係が生まれることもあり、逆に大手の書店のシステマチックな対応に壁を感じたりもしました。ネット販売のサイトも立ち上げ、妻に手伝ってもらい注文と配送の作業に追われる日々です。

 何もないところに自らのモチベーションで何かを生み出す作品制作の作業は大変ですが、励ましてもらえるこのような機会があり、続けていけるのだと思います。今後もこの賞の発展も祈りつつ、自らも誰かを励ませる機会をより多く作ってみようと思います。

 この度は第一回受賞作に選んでいただき光栄です、本当にありがとうございました。

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< 受賞者の言葉 >

中村和恵

 不思議な名前の文学賞をいただいて驚き、同時にその趣旨を知って、その複雑さが味わい深く、たのもしく貴重におもわれました。それはわたしが試みつづけていることに、とても近い気がしました。

 日本語に生まれて、という題は、わたし自身のありかたを率直にいい表したものです。「世界の本屋さん」と題してこの本のもとになる連載を書いたのは、日本の外にいるときでした。でも、日本人に生まれてどうですか、といわれたら、まずその問いそのものに問いを投げかけないではいられない自分が、日本語にはたしかに「生まれてしまった」と感じる、運命という大袈裟なことばをおもい出すような不可避性を感じるようになったのは、日本で外国文学にかかわる仕事をつづけてきたからだとおもいます。

 世界の「端っこ」とみなされることの多い地域を背景にもつ文学を読むうちに、知らないうちに着こんでいた欧米中心主義が、古い蛇の皮のようにするする、と脱げてきました。「普通」「主流」「あたりまえ」とされているさまざまなものの見かたを、どうかな? と考え直し、過去を掘ったり、遠い場所をつなげたり、異なるやりかたをまぜたりすることで、新しい世界の知りかたに挑戦したいと、いつも考えるようになりました。ちいさい場所、周縁、端っこからものごとを見る「端っこのひと」になってみると、あらら、と驚くほど「中央」の本音が見えてくる。わたし自身の「あたりまえ」が洗われて、どこか別のところで見たような骨格が現れてくることも。いつも発見があります。

 ですがいま、多くの人々は疲れて、新しい発見やいりくんだ事情、ひとつふたつ海をまたいだ向こうのことや、不都合な真実を避け、単純で聞きなれた話ばかり求めるようになっているのではないか、そんな懸念があります。いま日本に一番必要な人材は、複雑さをおもしろがれる、こころにヒマがある大人なんじゃないでしょうか。そういうひとたちのネットワークが、この賞の周りに見える気がします。この活動、つづいていきますことを。

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