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「もやもやの午」其の七『名古屋の女(ひと)』6

2018.07.22

イトウ ユタカ

イトウ ユタカ:音楽製作業と並行して近年、著述業を開始。2015-16年、雑誌SWITCHにて 音楽家・小島ケイタニーラブ、写真家・朝岡英輔とともに記事を連載。小島と作家・温又柔 のユニットpontoに雑談/音響として参加中。雑談が好きなので、雑談家という肩書きをつ くってみました。雑談しましょう。

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 ゲストハウスの扉をくぐると小さな玄関があり、左側にある靴箱にはスリッパと靴が整然と差し込まれている。靴箱に沿った壁には日本語、英語、中国語の注意書きや、観光名所のポスターが貼られていた。玄関のすぐ右側には扉が外された部屋の入り口があり、そこから覗くとソファーやテレビなどが置かれているリビングが広がっている。さらにその奥には部屋の仕切りが取り払われており、食卓と冷蔵庫が置かれたキッチンがあった。玄関をあがると目の前には二階に登る階段と、木板で形作られたフロントと思われるカウンターがあったがすでに人はいない。フロントの前にあるベルを鳴らすと奥のカーテンの向こうの電気が消え、小太りで顔色の悪い男がのそのそと出てきた。こちらの顔を見るとすこし怪訝そうな表情を浮かべながら言った。

「あの、バッカスは隣ですけど。」
「え?」
 突然バッカスと言われ、こちらもよくわからないまま逡巡していると、短めの金髪の頭を指で掻きながら男は続けた。
「あ、違うんですね。こちらに宿泊ですか?もう時間が・・・まあいいか。」
 時刻は23時を少し過ぎていた。
「 お一人様ですか。」
「はい・・・そうです。」
「個室しかもう空いてないんですけど、それでもよければ。」
 もちろんどの部屋でも構わなかった。受付の男はひととおりの説明をしてくれた。2階は女性専用フロア、3階が個室とドミトリー、つまり相部屋だ。トイレやシャワーは各階で共有となっている。ここはいわゆる「安宿」の類であり、個室でも3000円と格安であった。23時以降は消灯するが、キッチンとリビングは静かにしていてくれれば利用しても構わない、冷蔵庫の利用も自由。二段目左にあるドリンク庫の中の飲み物は横の料金箱にお金を入れれば飲んでもよい。発泡酒とチューハイは300円、お茶は150円。ひととおりの館内の案内を終えた男はデニム地のオーバーオールの胸ポケットから鍵を二つ取り出し、渡してくれた。片方は部屋の鍵、もう片方は玄関の扉の鍵だ。
「一応言っときますけど、個室はひとりでご利用くださいね。では、もう消灯時間なんで、おやすみなさい。」
そう言って彼はまたフロントの奥に消え、バタンと扉が閉まる音がした。
 しん、と静けさが訪れる。フロントの壁掛け時計がカッカッと鳴っていた。キッチン横にある冷蔵庫の中のドリンク類を確認した。スーパーなどでよく見かける一般的なメーカーのようだ。フロントの前にあるチラシ類や壁に貼ってあるポスター類もくまなく調べた。どこにも「スティーブ」はいない。3階に上がり宿泊部屋に入った。中にはゴミ箱と木机、それに鉄骨組の2段ベッドがあった。質素だがとくに不潔ではない。マットレスの上にはシーツが置かれており、その上にはシーツと枕カバーは必ず使ってくださいとの注意書きの紙が置かれてあった。安宿なのでベッドメイキングも自分でやれ、ということなのだろう。鞄を置いてベッドに腰掛けると、思い出したように体から汗が吹き出してきた。あれだけ走ったのだから当然だ。鞄からタオルと着替えを取り出し、部屋を出て廊下の一番奥にあるシャワールームに入る。念のためシャンプーやリンスにも「スティーブ」がいないかどうかを確認した。いなかった。
 シャワーを終え部屋に戻ってベッドにどかりと横たわり、目を瞑る。先ほどのA子の部屋でのことが頭の中に蘇ってくる。すぐに目を開ける。あれは、いったいなんだったのか。A子のせいなのか、自分のせいなのか。自分はあれだけ相手を怒らせるほどのことをしてしまったのか。確かに彼女に邪な気持ちを抱いていたことは否めない。それも、言ってしまえば彼女からのシグナルを受け取っていたにすぎない。でも彼女はそんなつもりはなく、彼女は「誘っている」と思っていたのだが、実際は「勧誘」していたということなのだろうか。だとしたら・・・・。また少し汗が滲んでくる。このままでは全く眠れそうにない。そして喉も渇いてきた。ひとまず喉を潤すべく一階に降りた。先ほどと変わらず、リビングにはだれもいない。冷蔵庫からチューハイを取り出し、リビングのソファーに腰掛けて缶を開けた。冷蔵庫のブウウウンという作動音だけが部屋に響いている。缶に直接口をつけると、喉がやや強めの刺激を感じた。改めて缶を眺めると「STRONG」「9%」と書かれている。強めのアルコール度数のものを開けてしまったようだ。ソファーの向かいの窓はレースのカーテンだけが付いていて、通りに面しているためか外の明かりが内側まで差し込んでいた。午前零時手前の割には通りを歩くひとはそこそこ多いように思える。誰かが窓の前を通るたびにリビングの中に影が揺れた。窓の端から人の歩く方をのぞくと、明かりのついた紫色の看板が見えたが文字は読めない。男性がひとり、あるいは二人で看板の手前の階段を上って奥に消えていく。何かの店があるようだ。その時、突然、ガタガタと壁が揺れる音が鳴った。誰かが入り口の扉を開けようとしているが、ロックがかかっているので開かない。とっさにリビングの奥に身を潜めた。だれかいませんか、と外から女性の声がする。受付からは誰も出てくる気配がない。扉の前に忍び寄るように行って、声をかけた。
「どうしたんですか?」
 すると関西弁のイントネーションの甲高い声が返ってきた。
「鍵を、自分の部屋に置いたままでかけてもうて。」
「ここに泊まってるんですか?」
「そうなんです。
 『スティーブ』の関係者かもしれない、と脳裏をよぎった。どうしよう、開けるべきなのか。
「宿の方ですか?」と、ドアの向こうからの声。
「いや、ぼくも宿泊客なんですけど。」
「そうですか、すみません、扉開けてもらえませんか。」
「ええっと・・・はい。あのスティーブさんのアレじゃないですよね?」
「は?」
「いや、なんでもないです。あ、開けます。」
 意を決して内側からロックを外して扉を開けると、スーツ姿の若い女が黒いレザーのバッグとコンビニエンストアのビニール袋を抱えて立っていた。

 

つづく

 

写真 /朝岡 英輔

 

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