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「ガラスの水時計」「さよならは内緒でね」

2015.03.30

ponto

ponto…2014年3月、小説家・温又柔と音楽家・小島ケイタニーラブが、朗読×演奏によるパフォーマンスをはじめ言葉と音を交し合いながら共同制作するために結成したユニット。同年9月、構成・音響・演奏をとおして2人の活動を支える伊藤豊も雑談家として加入。 SBBで行われている温又柔と小島ケイタニーラブの創作イベント「mapo de ponto」でできた作品をこちらのページで公開中。

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_ガラスの水時計(小島ケイタニーラブ)

パリのシャンゼリゼ 足元を照らす
ガラスの水時計 ポチャンと
秋のアルファベットが色どる夜に
二人の影は 振り子みたいです

二つの心は へのへのもへじ
ぐるっとふくらんで 一つになって
言葉と言葉は 言い訳を探す 探すのさ

あっという間に 終わってしまうね
まだまだまだ 遊びたいよ
別れの言葉を重ねよう 二人の暦を重ねよう
言葉と言葉が言い訳を探す その前に
ガラスの水時計が 夜を照らしている

 

 

Sep 7 さよならは内緒でね

スキャン 3

ミョンテは、あいうえおの「あ」の字も書けないのに、“へのへのもへじ”なら書ける。わたしが教えてあげた。忘れていたけど、ミョンテはおぼえていた。突然、ボールペンを握ってメモに何かを書きつける顔ときたら真剣そのもので、私は緊張する。数秒後、ミョンテが得意げにかざしてみせるメモを見た瞬間、拍子抜けした。なにしてんのもう、と漏らす私に、画得好码? とミョンテが訊く。わたしは、日本では子どもでも書けちゃうのよ、とは言わずに、「画得非常好!」(とってもよく描けてる)と褒めてやる。くしゃりと笑うミョンテの顔が小さな子どもみたいで可笑しい。

   「我送给您这张画!」(きみにこの絵をあげる。)

ミョンテが長い両腕をのばして“へのへのもへじ”のメモを差し出すものだから、私は両手でそれを恭しく受けとってみせる。

それにしても、「Fairmont Peace Hotel」とイタリック文字が刻まれているメモの真ん中に、へのへのもへじ。可笑しい。わたしが笑うのを見て、ミョンテも笑う。
はしゃぎながら、実は二人とも少し緊張している。学生、しかも留学生という身のうえであるじぶんたちには少々贅沢すぎるこのホテルの一室で、私とミョンテは夜を明かそうとしている。椅子に腰かけたミョンテとベッドの傍らに立つ私。この笑い声が途切れたら、たぶん……そのとき、鐘の音が鳴り響いた。上海海関の時計塔が近いのだ。空の色が薄くなっていく。そろそろ灯りを点さないと、お互いの顔が見えなくなる。わたしはたぶんべそをかくような顔になった。ミョンテの眼差しが、わたしをいたわるように曇るのがくるしくてうつむいてしまう。
鐘の音が途切れて、静寂が迫る。ミョンテの体温が近づく。

遊びだって笑われても、泣いたりなんかしない。
むしろ、こうならなかったらもっとくやんでいた。

わたしの母国語を、ミョンテはさえぎる。言葉ではなく唇で。ミョンテの心臓の音が、先ほどの鐘の音よりも強く、私を狂おしくする。吐息のむこうに、言葉の気配を感じる。「미안해요……」 ミャアネ……わたしは悲しくなる。それが「对不起」(ごめんなんさい)を意味する言葉だと理解してしまった自分に悲しくなる。
ミョンテの肩越しに窓が見える。息がとまりそうだ。瞼をとじる前に夜を迎える上海の空を見つめる。三日月の浮かぶ空をおぼえておく。

三日月は、プラタナスの木々の向こうの低い空にも浮かんでいた。白く光る月を先に見つけたのはミョンテだった。

   キレイ

と日本語で言う。

   你很浪漫的人(あなたはロマンティックなひとね)!

とからかうと、照れる。浪漫的人、浪漫的人と、何度もくりかえしたのは、照れるミョンテをいとおしく思いすぎないように自制するためだった。勘弁してくれよ、と逃げ出すミョンテを小走りになって追いかける。
もっと、混み合っているかと思っていたら、この日の淮海中路はふしぎと人気が少なかった。おかげでわたしたちは、フランス租界時代の瀟洒な洋館が並ぶプラタナスの並木道を充分に満喫していた。
上海に来てから、学校の計画であちこちに連れまわされたけれど、私もミョンテもこの界隈が最も気に入っていた。だから最後の飲茶は「申粤軒」ですることに決めたのだ。丁香花園の中にあるレストランだ。

ライラックの花を意味するには、「丁香」は画数が不足していると思う。ミョンテにそう言おうとしてためらう。ミョンテはわたしほど、漢字に慣れしたしんでいない。祖父のつけてくれた明泰というじぶんの名まえすら、この国に留学することが決まってから書けるようになったのだ。
だから私が、その名を一度みただけですらすらと書いてみせたとき、「我羡慕你」(きみってすごいね)と言った。私はおかしかった。日本人ならこれぐらい誰だってできる。
それよりも私には、명태 と彼の母国語の文字を綴る方がずっと難しかった。ミョンテが、“みょんて”とひらがなで書くのに苦労していたように。

ーー私たちときたら、中国語を学ぶためにやってきた留学生なのに、中国語以外の言葉をおぼえたがる。「私は韓国語。彼は日本語。」お互いの言葉を、めずらしい果実のようにそっとつまんでお互いの舌にのせる。彼がくれる彼の国のコトバは、わたしの中に甘ずっぱく沁みとおる。

……こんなこと、想像もしなかった。顔をあげると、ミョンテがわたしを見つめている。どきりとした。ミョンテの声は無邪気だった。

「我们运气很好(ぼくらは幸運だね)」

申粤軒店内は比較的混み合っていたが、運よく庭園がのぞめる窓際の席に案内された。薫り高い中国茶を啜りながら「恋多き人だったのね」と日本語でもらす私に、「ナニ?」とミョンテが日本語でたずねる。「李鴻章」。リコウショウ、では通じない。案の定、ミョンテは機嫌良さそうににこにこ笑って私の説明を待つ。ライラックの花の名がついた“花園”は、清代末期の軍人・李鴻章が愛人・ティンシャンのために購入した屋敷のことだった。中国語に切り替えたわたしは全然関係のない話をする。

   「ね、わたしたち逆だった可能性もあるよね」
   「え?」
   「わたしが韓国人で、あなたが日本人だったかもしれない」
   「……」

わたしとしてはちょっとした思いつきのつもりだったが、「ぼくは、ぼくらがどちらも韓国人、あるいは日本人であったらと思う。中国人同士でもよかった」とミョンテは言い、わたしたちは少しの間、黙り込んだ。きっと、こうではなかった人生を、それぞれ思い描いていたのに違いない。そして、わたし以上にミョンテはそうであった可能性を切望していたのだろう。でも、そうではなかった。

私もミョンテも、もう少し一緒にいたい、と相手に告げることができず、申粤軒で食事を終えたあとも、あてどなく歩いていた。幸い、そうするのにふさわしい界隈だった。
町標をみあげ、華山路、と呟く私を、ミョンテがおかしそうに見守っている。私の口調が形式ばっていたからだろう。常に正しい発音を意識するのよ、と学校でしょっちゅう言われた。特に日本人! 中国語を話すときは頭の中からカタカナを追い出しなさい。
“華山路”は“ファサンルウ”ではなく、“huá shān lù”。
ふと思いつき、発音に気をつけないと、フランスは花の国になる、と私はミョンテに教える。ミョンテがいぶかしそうに私を見つめ返す。
この国の人々は、フランスを「法國 fǎ guó」と呼ぶ。

   “花(huā)”と“法(fǎ)”。

fがhになったら、法国(フランス)は、花の国よ。ミョンテは、花の国なんて素敵じゃないか! と笑った。よっぽど気にいったのか、ファー、ファーと子どものように唱えだす。
旧フランス租界地の街並みは美しかった。
かつて、法国人たちは本国から遠く離れたこの地に、自分たちのための街を作って優雅な暮らしを送っていた。“犬と中国人入るべからず”という札を掲げて。
上海を“東洋のパリ“と呼び、我が物顔で闊歩したのはフランス人だけではない。あの時代、欧米列強、そして日本は、「清國」の領土をケーキのように切り分けると、自分たちのものだと豪語した。
ミョンテのひいおじいさんが、大恋愛の末にミョンテのひいおばあさんと駆け落ちをくわだてたのも同じ頃だ。そう、ミョンテの曾祖父母は“東洋のパリ”から逃げ出し、北にむかって船を乗り継ぎ、朝鮮半島に辿り着いた。以来、大陸には二度と戻らず、Koreanとして生きてきた。
私のひいおばあさんが、日本人の男に嫁いだあと終戦をむかえると生まれ故郷にそれきり帰らなかったように。
私とミョンテは、どちらも「中国人」の末裔だ。曾祖父母の言葉をおぼえるために、それぞれの国からこの大陸にやってきた。

   大韓民国と日本。

ソウルでもなく、トーキョーでもない。シャンハイで私たちは立ち尽くす。日本語でもなく韓国語でもなく、中国語が途絶えたとき、パリの気配が立ちこめる上海は昼と夜の間で揺らめいていた。
わたしたちは身をよせる。かれの手が、わたしの髪にふれる。わたしは目を閉じない。「見つめていなくては」と思う。今、ここにいる私とミョンテを包みこもうとしている風景を。「見つめていたい」と思う。いつか忘れようとしても忘れられず胸がはり裂けそうになるのをこらえなくてはならないとわかっていても。

   ダイジョウブ?

ミョンテの声が耳もとをくすぐる。大丈夫?だって。笑っちゃう。私がいつも言っている日本語だ……

   「我父親不允我ー」(ぼくの父はー)

ミョンテは誠実だった。

   「和日本人結婚。所似我没法再和你在一起ー」
   (日本人との結婚を許さないだろう。だからぼくはきみとこれ以上ー)

ミョンテにしまいまで言わせなかったのは私だ。

   「那么,我想和你一起做了一场梦」。(なら、夢だと思うわ)
   「ーー」

先にふれたのも私だ。ミョンテのとまどいが熱にまみれて溶けていく。わたしたちはふれあう。時計塔の鐘の音が鳴るまでのひととき、止まってしまった世界の中でわたしたちは夢の中を遊ぶようにさわりあう。
約一世紀前、かれのひいおじいちゃまが、かれのひいおばあちゃまにしたのと同じことを、わたしはミョンテに許す。ミョンテが、かれのひいおじいちゃまほどの勇気がない男だとしても、今だけでも、わたしはミョンテとふれあいたい。

   「不想回家。」(家に帰りたくない…)

と呟いたのはミョンテのほうだ。

   「家?」

私は笑ってしまう。この国のどこにも、わたしたちの家はない。帰る必要はない。少なくとも今は。そしてわたしたちは黄浦江の風景を見おろす和平飯店の一室を、ふたりの一夜限りの「家」に選んだ。

へのへのもへじ

出会ってまもないころ、ミョンテが教えてくれた。韓国語の“再见“には2つの言い方がある。

   안녕히 가세요と
   안녕히 계세요。

アンニョンカセヨと、アンニョンケーセヨ。「どうちがうの?」ときく私に、図で説明しながらミョンテはおしえる。

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一緒にいた誰かがその場から去るとき、おなじ場に留まる自分がいう「再见」。

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分がその場から去るとき、同じ場に残る誰かにいう「再见」。

「なるほど」と日本語で呟いてしまった私に、「日文呢?」とミョンテがきく。

   日本語では「再见」は何というの?

わたしはわざとおどけて、

   “さらば”って言うのよ。 と教える。
   サラバ?
   …うん、サラバ。

笑いをこらえながら私は真剣な口調で私からおそわった日本語の「再见」を練習するミョンテのようすを見ている。

あかりは灯さなかった。上海の夜はとっぷりと暮れて、窓から射しこむ街灯が、わたしたちの足先を照らす。時計塔の鐘が鳴るたびに、このひとときが永遠ではないと感じる。

   ダイジョウブ。

でも、肝心のミョンテには聞こえない。さすがにくたびれたのだろう。眠気に負けたミョンテは数分前から寝息を立てていた。わたしの目は逆に冴えていく。「わたしは大丈夫」ねむっているミョンテに話しかける。
私たちは上海で出会い別れる。

   この恋を遊びと笑われても泣いたりなんかしない。

唇を噛みしめる私の目の前で、はらりと落ちるものがある。気になったのでベッドから降りて拾いあげる。薄明かりの中で「へのへのもへじ」が見えたとたん、笑いがこらえきれない。私のようすに気づいたミョンテがねぼけまなこでこちらを見つめる。
アンニョンカセヨでもアンニョンケーセヨでもない。2人同時に上海を去るのだ。

この夜があったことを私は生涯いとおしむ。

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板根厳夫『新・遊びの博物誌』(朝日新聞社)
引用:「昔の柱時計には、毎時、時報を打つという機能が備わっていて、ボン、ボンと鳴る音で時刻を知ることが多かった。夜中に眠っていて、夢うつつで音を数えて、ああ、もう何時になったかと気づく…」(「聴く時計」)

 

【店主の一言メモ】

音と言葉の往復書簡は、創作の場である小さな本屋の空気と土台となる本の内容を
見事に掛け合わせながら、二人の表現として成立しています。
回を重ねるごとに成熟度が高まっているのを見守りながら感じています。
第二部を締めくくるにふさわしい作品。

ムービー撮影:朝岡英輔

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