おとなとZine おとなのZine 第2回
2014.11.07
DIRTY。ジンスタ。Q.H.Z.C.の一員として静岡県三島市で月に1度のジンの集まりOur Table for zine sharingを開催し、Deeper Beneath the Skinという月刊ジンを発行中。西山敦子という名前で書籍や映画字幕の翻訳も手がけている。 2014年11月にSBBで行われた展示フェアから始まった“おとなのジン”を探るプロジェクトをこちらで公開中。
いまこのページを読みはじめてくださった皆さま、こんにちは。
長らくごぶさたしてしまいました。
正直に言ってしまうと、このコラムの第1回目を書いたことでずいぶんと考えさせられることになりました。
「おとな」としてジンを作っていくにあたって、自分のなかで「若さ」と結びついているようなやり方はしっくり来なくなり、「卒業」せざるをえないと感じているのだ、というようなことをわたしは書きました。具体的にはライオットガール的なアプローチのことを指しますが(前回のコラムをご覧ください)、さていったいわたしはこれまでに彼女たちをお手本にして、本当にアクションを起こしたことなどあっただろうか? 有名無名の勇敢でクールな女性たち(この中にはたくさんのジンスタも含まれます)に憧れる熱狂的なファン、昔も今もただそれだけなのではないか? よくよく振り返ってみると、そう気づかざるをえませんでした。
受け入れがたい真実に、もちろん胸は苦しくなりました。けれどそれならむしろ、いまの自分よりずっと若かった彼女たちに憧れて終わるのではなく、今こそ自分なりのやり方を見つけるときなのだと思うことにしました。それを探り、見つけ、実行するべく生きていくのだと、肝を据えるほかありません。前回のコラムを読んでくださった方からの感想で印象的だったのが「わたしはおとなになるのが怖いのです」というものでした。その気持ちは痛いほどにわかります。そして同時に「やっとこの時が来たのね」とも感じています。
やれやれ。まあなんて姿勢も考えも定まらない人間による、ふらふらと危なっかしいコラムだ、とあなたはあきれているでしょう。なぜこうも続けて冷や汗ばかりをかいているんだと自分でも思います。これもきっと、どんなおとなになりたいかを見極めるプロセスであり、答えの出ていないこと、おそらくはっきりとした正解などないこと(つまり「おとなのジンとは何か?」ということですが)を探るプロセスなのだと考えることにしましょう。
さてまた前置きがおそろしく長くなりましたが、今回からはわたしの好きなジンスタたちに話をきき、「おとなのジンとはなにか」を考えていきます(忘れそうになっていますがそもそもそういう趣旨のコラムです)。今回は”ALL I WANT IS EVERYTHING”というジンの作者、ケイトリンさんです。
そもそもわたしがこのテーマについて考えたいと思ったのは、”ALL I WANT IS EVERYTHING”の最初の号に彼女が書いたイントロダクションを読んだことがきっかけです。
その10年近く前、20代になったばかりのケイトリンは“I was a Teenage Mormon”というかなり広く読まれたジンを作っていました。その後、大学や地元の新聞に書き、いまはニュースの記事を書く仕事をしながら、フリーランスのライターとして雑誌やアンソロジーにエッセイを寄稿しているようです。書くことが仕事になって数年、またジンを作り始めた彼女はその気持ちをこんな言葉で表していました。
「ジンという媒体は、わたしよりもっと若いかもっとパンクな人たち、あるいはその両方が合わさった若いパンクスたちのものだと思うようになっていた。わたしはそのベン図からは完全に外れている。洋服で言えばゴルフウェアくらいパンクからはほど遠いし、30代はもうすぐそこで若者とも言えない。
けれど考えれば考えるほど、そんなふうに思うこと自体がひどい決めつけだという気がしてきた。そしてある日、アリスン・ピープマイヤーの書いたジンについての本(※『ガール・ジン』)を読んだ。かつての自分にとってすごく大切だったジンというものに、再び激しく焦がれるような気持ちに打たれた。(略)
それでわたしは6年ぶりにジンを書いている。だってわたしには言いたいことがたくさんあるから。そのどれもがひどくパーソナルで、きっとどんな雑誌も出版社もオンライン文芸誌にも載らないようなこと。それでもとにかく言わずにはいられない、そんなことばかりだから。」
(ALL I WANT IS EVERYTHING #1より)
再開してからもコンスタントにジンを作り続ける彼女に、パーソナルな体験や感情をテーマすることや、今の生活でジンを作ることがどんな意味を持っているのかなどを質問してみました。
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DIRTY(以下D.) 20代になったばかりの頃にジンを作り始めて、しばらくストップしてからまた再開しましたよね。もう一度ジンを作ろうと思ったきっかけは何でしたか?
Caitlin(以下C.) わたしがジンをまた作るようになったのは、プロの書き手としてキャリアを歩み始めてからです。
自分の書いたものが雑誌や本に掲載されるまでの過程を楽しんでいた反面、編集や出版に関わるたくさんの人の手を経ることなく、言いたいことを言ってしまうことができたら、と思っている自分に気づいて。一連のプロセスなしで自分の書いたものを世の中に出したくて、再開することにしました。
D. あなたは記者として、そしてライターとして、書くことを仕事にしています。数年前から始めたフィットネスや健康とフェミニズムについてのブログ(http://fitandfeminist.wordpress.com)にはたくさんの読者がいますよね。文章を発表する場が他にもある中で、それとは別にジンを作り続けることには特別な意味がありますか?
C. わたしがジンを作り続けるのは、わたしが今でも電子書籍より紙の本を読むのと同じ理由からです。手でつかんだり、持ち歩いたり、触れるという体験をともなうということが大切なんです。わたしはこれまでも今も、インターネットをよく使っています。それで、コンピューターの前にいる時間が長くなればなるほど、そこから離れている時間が自分にとって貴重に感じられるようになって来たんだと思います。
それと、本とかジンとか写真のアルバムとか、手に持ったり触ったりできる物のほうが思い入れや共感が強くなるような気がして。五感を刺激されるというか、感じることも記憶に残ることも、もっと鮮明になるような気がします。インターネットの場合は、実際にやっていることは色々あっても、モニターを見ながらキーボードを打っているという動きそのものはいつも同じですから。
D. ジンに書くものと他で書くものとはやっぱり違います?
C. ジンに書く文章にはブログより時間と手間をかけます。時には仕事で書く文章によりもね! 最初のドラフトに数日かけ、そのあと数週間にわたって手を入れ、書き直します。
ブログの場合はざっくりとドラフトを書き、それを一度読み直してすぐにアップするだけです。
D. ジンの中でパーソナルなことを書くときに躊躇することはないですか、どこまで書いたらいいのかよくわからなくなるっていうか。個人的なことを書くとき、なにか線引きというか、基準はありますか?
C. とまどうことは、もちろんあります! 「ここまで見せる必要ってある?」とか感じる瞬間ね。わたしの場合、単に知ってほしくて自分の個人的なことを書いたりはしません。そうする時には、何かより大きな目的があります。
例えばこれまでにジンの中で、DVや性的虐待の経験について、ドラッグの使用やその他いろいろなことについて書いてきました。そういうときにも単に個人的な経験を伝えるためではなく、たくさんの人に関係のある大きな問題として伝わるように書こうと心がけました。人に読まれる文章を書くことを、セラピーとしては使いたくないんです。
自分の問題と向き合うさまを皆の目の前にさらけ出すような書き方をしない理由は、いくつかあります。まず、自分自身でまだ受け入れられていない個人的なことを公にしてしまうことに不安があるから。そして、読む人が退屈してしまうのではないかと思うから。
最近は一般的に、自分の生活で起きたことをすごくあからさまに書くという傾向があるでしょ? 書き手が別にそれでいいのなら全く問題はないと思います。その辺わたしは少し古いタイプみたいで、いやらしくなったりあけすけな感じを与えたりせず、自分の経験を共有したり私的なことを書く方法があるんじゃないかな、といつも思っています。
D. 若者と呼ばれる年代を超えてからもジンを作り続けて、何かいいことはありましたか。
C. いちばんよかったと思うのは、ものを作り続けることでカルチャーに積極的に加わり続けられることかな。そうでなければ作られたものをエンドレスに消費し続けるだけになってしまいますから。
あとは、社会性という面から見ても得るものは大きい。何かを書いてそれを共有すると、読んでいる人たちとすごくポシティブな形でつながっていると感じます。そう思えるのって、すごくいいでしょ? だって最近の世の中では他者と交わることができなくて孤立してしまう、なんてすごく簡単に起こりえるから。
あとはただただ楽しいということかな。ものを作ったり、いつも何かしら行動を起こしているのって、単純にすごく楽しい! できる限りいつでも楽しいことをしていたいです。
D. ジンを作ることはあなたの人生にとってどんな意味がありますか。日々の生活のなかではどんな位置を占めていますか。
C. 残念ながらジンを作ること自体はもう、わたしの人生の大きな部分を占めているというわけではありません。たくさんのジンスタを見ていると「その人らしさ」のど真ん中にジンの存在があることが多いし、友だちの中にもそういう人はいます。すごく素敵なことだけど、わたしにとっては自分の時間を使ってするたくさんの活動のうちのひとつ、という位置づけかな。
今はだいたい1年に1冊のペースで作っています。ジンのイベントにも行くし、そこで他の人が作ったものも読んでいます。でも、他にもたくさんのことをやっているんです。フルタイムの仕事と趣味(マラソンやトライアスロンなどのスポーツ)に時間とエネルギーをかなり注ぎ込んでいるので、少しでも余力があればそこでジンを作るというのが実際のところです。
ただそう言いながらも、ものを書く(ジンに、あるいは他の何かでもいけど)ためには、生活する、周りにあるものを観察する、それについて考える、そして観察や考察の結果を表現する言葉を探し当てる、というさまざまなプロセスがわたしには必要です。だから「書く」という行為そのものに費やしているのは週に数時間かもしれないけれど、実際にはその何倍もの時間をかけて、書くために必要なことを生活のなかでやっているんだと思います。
D. よくわかります。わたしも実際にジンを書いたり作ったりしている時間は短いですが、日々の中で「このことをジンに書こう」と思うことがよくあります。思うだけのことも圧倒的に多いのですが、もうくせみたいになっています。
それでは最後に、あなたのお気に入りの、おとなが作ったジンをいくつか教えてください。
C. おとなが書いた大好きなジンはたくさんあります!
いま全部思い出すのはむずかしいくらいだけど、ちょっと挙げてみますね。
キャリー・マクニンチの作る“You Can’t Get There From Here”、ジョナス・キャノンの”Cheer the Eff Up”、セリア・ペレスの”I dreamed I was Assertive”、ケリ・カリの”That Girl”、それからヘザー・コルビーの”Dig Deep”……
ああ、どうしよう、他にも今はうっかり忘れているものがたくさんあると思うけど、友だちが作っているのも含めて(ごめんね!)。ここで挙げたのはわたしのオールタイム・ベストなジンの、ほんの一部です。
D. どうもありがとう、これからもあなたのジンを読むのを楽しみにしています。
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ふらふらと覚束ないわたしとは対照的な、しっかりと筋の通ったまさにおとなのジンスタ!「パーソナルなことを、ただ単に知ってほしくて書くということはしない」というところに、彼女のジンの親密でありながらエレガントな独特のバランスのよさの理由を感じました。個人的には「ただありのままを書く」というスタイルのパーソナルジンに惹かれる部分もあるのですが。ジンを作ることは生活の中心にはない、と言い切りつつ、すべてが書くことにつながっていると語っているのが印象的です。
ケイトリンのジン”ALL I WANT IS EVERITHNG”は11月15日(土)からSUNNY BOY BOOKSで開催される『おとなとジン おとなのジン』フェアで一部日本語の翻訳つきで閲覧することができます。
次回に続く
*引用写真は上から
“ALL I WANT IS EVERYTHING” #1
“ALL I WANT IS EVERYTHING” #4
“ALL I WANT IS EVERYTHING” #5