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絵描きからの片道書簡 四通目 「何を見て、何を描く」

2015.02.03

阿部 海太

阿部海太 / 絵描き、絵本描き。 1986年生まれ。 本のインディペンデント・レーベル「Kite」所属。 著書に『みち』(リトルモア 2016年刊)、『みずのこどもたち』(佼成出版社 2017年刊)、『めざめる』(あかね書房 2017年刊)、共著に『はじまりが見える 世界の神話』(創元社 2018年刊)。 本の書き出しだけを読み、そこから見える景色を描く「フロム・ファースト・センテンス2」を連載中。 kaita-abe.com / kitebooks.info

先日、大阪は民博こと国立民族学博物館にてオーストラリアの先住民族アボリジニが描いたという絵を目にしました。
それはアボリジニの伝統的な描画法の点描で描かれた物で、一見すると只の模様にしか見えなかったのですが、解説を読んだところ、どうやら彼ら独自の創世神話を題材に、ある7人姉妹が悪い精霊に追われて逃げる様子を描いたものだということでした。
その解説を読んだ後でようやく気付いたのは、その模様にしか見えなかった点々が登場人物の歩いた足跡を表していたこと。そして、彼らの住むオーストラリアの砂漠地帯は東京のアスファルトと違い、残る足跡がそのまま道となるような場所だということです。

目にしたものしか描くことが出来ないことを、ここ数年痛感しています。
もしアボリジニとして生まれていたら、砂漠に残る足跡はもっと見慣れたモチーフだったかもしれませんし、解説など無くてもその絵の真意を理解できたのかもしれません。自分と全く違う場所で生まれ育った絵描きが、この絵を描くまでに見て来たであろう風景を想像しながら、「要するに、たまたまその場所で育った人が、たまたま今まで見てきたものを描く、それが絵なんだ。」と、一人感慨にふけっていました。
では果たして、僕はここ東京で、いったい何を見て、何を描いているのだろうか。
このシンプルかつ大仰な問いについて考えるとき、ひとつの言葉が思い出されます。

「絵画は光を再構築するもの」

これはまだ絵を始めたばかりの美術予備校時代にある学友が教えてくれたもので、サグラダ・ファミリアで有名な建築家、アントニオ・ガウディの言葉だそうです。
絵の具では光を作ることはできません。真っ白の絵の具は真昼の太陽に比べれば暗くくすんでいますし、真っ黒の絵の具はいくら塗りたくっても夜空の暗さに敵うことはありません。それでも絵画が光り輝くのは、画家自身が浴びた陽光がその絵筆を伝って紙やキャンバスに投影されるからで、しかもその光は画家の体内を通るうちに様々な影響を受けて変容した、絵の中にしか差すことの無い「イメージの光」なのだと、僕はそう彼の言葉を解釈しました。以前から抱いていた絵に対する想いにぴったりの言葉が与えられたことに、ひどく興奮したのを今も覚えています。

時おり、絵の中にしか差すことの無いその「イメージの光」に強烈なリアリティを感じることがあります。
もっと感覚的に言うならば、「知らないけど、何か知っている」という感じです。
あるときは昔のヨーロッパの風景に、あるときは巨大な抽象画に、はたまた絵の具の乗っていない白い余白に。その強烈なリアリティがいつどこに現れるかは予想がつきません。見た事なんてあるわけないのに、それでも何故か覚えがある。それを既視感と言ってしまうこともできますが、そう言ってしまうとどうもこぼれ落ちるようなものがある気がしてしょうがないのです。

人間が太古から見て来たもので全く変わらなかったものはほんのわずかしかありません。「種の記憶」という考え方がありますが、現代美術家の杉本博司氏の作品の中に、太古の生命が目にしたものと全く同じ状態で眺めることのできる唯一の景色として、海の水平線を写した「海景」という一連の写真があります。そういう目線で海を見つめたとき、なぜ人が海を見たがるのか、なぜ海に美しさを見いだすのか、少しだけ解ったような気がすると同時に、降り注ぐ太陽の日差しや闇夜を照らす月明かりも同じく、人の記憶のその一番奥底に染み入っているものなのではないかと思うのです。それが、他人が描く絵の中の光を見て「知らないけど、何か知っている」という感覚を持つ理由の一つとは言えないでしょうか。

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やはり少し大仰に聞こえるかもしれません。
でも、物が溢れてむせ返るようなこの東京の片隅で暮らしていると、空や、雲や、風や、陽の光が、そんなカタチを持たないものだけが、記憶と感性を刺激してくれるように思います。借家の窓から差しこむ光は、その部屋に置かれた何よりも美しいと思うし、駅のホームを照らす斜陽は、どんな絶景の写真を載せた広告より印象的です。少なくとも、僕の目にはそう世界が映っているようで、絵の中には東京の風景の代りに、カタチのない光と、その光が思い起こさせた遠い記憶とが混じりあって並んでいるような気がしています。

「光」を見て、「記憶」を描く。
これが僕の「何を見て、何を描く」という問いに対するひとまずの答です。

世の中にはたくさんの絵描きがいるので、その分たくさんの答があるのだと思います。
ましてや写真や映像に比べて昔の昔から描かれていますし、描く物さえあれば絵描きじゃなくても描けてしまう。
もっと言えば描く物なんか無くても、砂の上を指でなぞるだけでそこに絵は現れます。
約3万2千年前から残る最古の洞窟壁画がフランスにありますが、それより前に描かれ、消失してしまった絵画もきっとあるはず。
あるとき、ある場所で、必ず描かれたはずの「はじまりの絵画」から、西暦2015年1月30日までの間で消えていった膨大な、莫大な絵の数々について思いを馳せると、どうして人間はこうも繰り返し繰り返し描くのだろうと、つい先ほども絵を描いていた自分のことなど忘れて、なんとも不思議な心持ちになります。

「どう世界をみているか」がそのまま絵として現れるのなら、時が経って世界が変われば絵も変わっていくのでしょう。
意識なんてしなくても、知らないうちに時代というのは映るものだと、ある先輩の絵描きさんが言っていたことが最近ようやく理解できた気がしています。
巷では何が新しいかも考えずに、その新しさとやらをやっきになって探す風潮もありますが、上っ面の新しさを求めず、その時代とともに静かに変わっていく様が、絵画には似合ってるように僕は思います。

海太

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*阿部海太『みち』(Kite)2.800円+税

阿部海太 / kaita-abe.com
Kite / kitebooks.info

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