新しいかけらと秋の仕草にむけて 最終回
2017.09.17
清水美紅(しみず・みく)1984年生まれ。群馬県出身、東京都在住。自分の心の挿絵のような感覚で絵を描く。2017年9月に当店で二回目となる展示フェア「新しいかけらと秋の仕草」に向けた創作日記を連載中。 http://shimizumiku.com/
今、SUNNY BOY BOOKSで個展をしている清水美紅です。
このコラムは毎回、サニーさん(SUNNY BOY BOOKS店主高橋さん)よりいただいた質問から始まります。
今日でおしまい、第4回はどんな質問かな?
Q4:「美紅さん、お返事ありがとうございました。
「私はここで、秋を生きています。
絵を見ているあなたも、ここで秋を生きています。」
という言葉に、第二回の質問へのお返事(「おんなのこ」は私で、あなたでもある。)も合わせて
美紅さんは絵を描きながら誰かと繋がれる喜びを感じているように思いました。
自分の見つめた世界の絵を描いて、その場所で誰かをずっと待っているような・・・
子どものままに絵を描き続けていると言っていたように、待ち続けるその姿に小さい頃の美紅さんを想像してしまいました。
絵を描き始めた幼き少女(美紅さん)はどんな思いを持っていたのでしょうか。
確固たる意志が合ったわけではないと思いますが、
どんな子でどんな世界にあこがれていたのか聞いてみたくなりました。」
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A4:「サニーさん、こんにちは。
最後までお返事と質問、ありがとうございました。
質問してもらうかたちにしてよかったと改めて感じています。
絵を描きながら、誰かと繋がれる喜び。
そうですね。
12年前、絵をやろうと決めたころは、絵を通して誰かと繋がれる喜びについて考える余裕がなかったけれど、
いつのまにか心に、繋がれる喜び、伝わる喜びを感じる部屋みたいなものができていたみたい。
私は自分の絵に満足できない期間が長かったです。
この絵に満足できないのに、この絵で人と繋がったら困る、という気持ちがありました。
でも今描けるものを描くしかないと、描いてきました。
今回の「新しいかけらと秋の仕草」のために描いた絵で、
初めて、自分の部屋に飾りたいなあと思えるくらい満足な絵が描けました。
絵に満足できるようになれたから、人と繋がれることに困らなくなって、
そのことがコラムを通してサニーさんに伝わったのかも。
満足できない期間はまたくると思うけど、その時はまた、その時。
子どものころのことでしたね。
サニーさんに質問を頂いてから子どものころ、
特に、小学校にあがる前の自分を見詰める時間を過ごしています。
コラムではなくただの思い出話になる可能性もあるけど、書いてみるね。
絵は、物心ついた時にはもう描いていました。
印象的なできごとがあります。
保育園で給食の時のように机を向き合わせくっつけて、絵を描く時間がありました。
なにかテーマがあったのかは忘れてしまったけれど、
私は棚の上の花瓶の絵が描きたいなと思いました。
前を向かず、ちらちらと棚の方を見ながら描いていたんだと思う。
そうしたら先生が花瓶の前で描いていいよと言ってくれて、椅子だけ移動させてくれました。
椅子を机にして床に座って、
ひとりきりで、花瓶のもようを色鉛筆の青い線でぎゅっと引く。
花をひとつひとつ見ながら描く集中。
なんかいい、と思った。
子どもなのでもっと言葉のない感覚で、いいと思った。
後日、先生は私の絵をいつまでも、教室の壁に飾ってくれました。
とっても嬉しかった。まるで初めての展示。
私はみんなみたいに、みんなと同じようにできないことが多くて困らせているのに、
先生はこの部分をわかってくれたんだっていう気持ち、たぶんそんな感じ。
このころの私は無気力で、食べる寝る遊ぶが苦手で、
どろんこになるのも、団体行動もてんでだめで、人見知り。
どんなこともとにかく怖い。
弱い。
保育園ではやりたくないことが多かったと記憶しています。
でも先生たちは優しかったな。
そのなかで絵を描く時が唯一楽しかったと言えたら、
きれいにまとまるのだけど、そういう楽しい印象もあまりないのね。
ではあの、絵を描く時間というのは子どもの私にとってなんだったのか、
花瓶を描いた時になにがいいと思ったのかと考えてみるに、
あれは無気力な私にとって、唯一の集中できる時間、だったのかなと思う。
集中することによって、自分の世界に入っていたんだろうね。
怖いことをその時間は忘れていたのかしら。
サニーさんが言うように、誰かを待っていたのかな。
お人形で遊ぶのも好きだったけれど、はっと、これ楽しいかなと冷める瞬間がありました。
小学校にあがったら、本や漫画やテレビ、自分の世界に入れるような好きなものに出会うけど、
この世にほうりだされて間もない幼少期に、
強く印象に残る場面はやっぱり、描いている途中の画用紙です。
あと家の庭にしゃがんで、タンポポとか見ているぼんやりした時間。
ぼんやりしていたかった、一人でずっと。
そんな毎日なので、絵に対する確固たる意思はなかっただろうけど、
もう一つ印象的な出来事を思いだしたので書きます。
確固たる意思といえば、これかな。
今と同じように、子どもの私が「おんなのこ」の絵を描いている時、
それを見ていた大人に、「お人形だね」とか、「お姫さまだね」と言われることに、
なんか違う、と思っていました。
この違和感もその時は言葉にして思うことができなかったけれど、今はわかる。
「この絵の人は生きている人。今まわりにいるような誰か。」というつもりで描いていました。
これって、今描いている「おんなのこ」に対しても思っていることと同じ。
だって「おんなのこ」は私だから。
私は生きている人で人形ではない、お姫さまでもない。
こういうところは変わってないなと思います。
無気力な子どもだったので、あこがれのような感情はなかったなと、
サニーさんの質問に答えられなくて残念なんだけれど、
大人の私が子どもの私に伝えたいことは、
子どものころより、大人になった今のほうがたくさんあこがれがあるということです。
(あの画家さんに、絵を見てもらいたい、
外で展示がしてみたい、
壁に直接描いてみたい、
絵を描いて10年たったら画集が作りたい。)
あこがれは、たまに現実になるということ。
あこがれはロマンいっぱいだということ。
弱い子どものころの自分が、今の私を支えてくれているということ。
あなたを思いだすときのかけらには、いっぱいこまかな草花や、クレヨンがついていること。
怖いものは確かに怖い、でも工夫でなんとかなることもあるということ。
あいさつとごはんはほんとうに大切だから、そこはなんとかやっていこうということ。
絵描きには、意外となれたよってこと。
自分で絵描きってきめたら、なれたよ。
どんな時もまず自分の為に描くということを大切に。」
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このコラムがのるころは個展の2日目です。
「新しいかけらと秋の仕草」よろしくお願いいたします。
このコラムはこれでおしまいです。
文字にしてみて、なんだか心すっきり、新しい気持ちで、私はもういちど絵が大好きになりました。
新しい思い出、新しいかけらです。
この秋に書かせていただいたこと、最後まで読んでいただいたこと、本当にありがとうございました。
清水美紅
※個展「新しいかけらと秋の仕草」は2017年9/16-9/28の開催です。
http://shimizumiku.com/
https://twitter.com/simizu_miku