「もやもやの午」 其の五『名古屋の女(ひと)』3
2017.07.10
イトウ ユタカ:音楽製作業と並行して近年、著述業を開始。2015-16年、雑誌SWITCHにて 音楽家・小島ケイタニーラブ、写真家・朝岡英輔とともに記事を連載。小島と作家・温又柔 のユニットpontoに雑談/音響として参加中。雑談が好きなので、雑談家という肩書きをつ くってみました。雑談しましょう。
高層ビルが立ち並ぶ目抜き通りを越えて若干いかがわしいピンク色のネオンがつき始めたばかりの街
並みを抜けると、雑居ビルやマンションの立ち並ぶ一角の中で、比較的新しい建物の一階部分に木目調
の面構えをした店が見えた。店の前の通りにはみ出して置かれた二つ折りの黒板にはチョークで書かれ
た”Organic cafe Org オーガニックカフェ オーグ”とあった。名古屋で一番おすすめのカフェだとA
子は言う。店内に入るとボサノバが小さく聴こえる。空調はやや弱めのようで、外との気温差をあまり
感じない。観葉植物が随所に置かれ、線路用の古い枕木を再利用した床に鉄製の細い柵で間仕切りが作
られている。入って左手のガラス窓沿いに木板のテーブル席が四つほどあり、店の奥には高めの椅子
に腰掛けるカウンター席が八席ほど並んでいた。テーブル席は全て空いているが、カウンター席は女性
客で満席だ。そのカウンターに座っているボブヘアーで細身の女性が一人、A子を見るなり立ち上がり
かけ寄ってきた。
「リリーさああああん!」
その女性は手を上げ家鴨口の笑顔でA子にハグを求める。彼女はそれに躊躇なく応え、抱擁した。
「会いたかったあああ!」
「わたし~もよ!」
抱擁が長い。その姿をカウンターの客たちは微笑を含んだ表情で見つめている。短いため息とともに
二人はゆっくりと離れた。
「リリーさんやっぱりいい匂いする!」
「ありがとううれしい。」
「またアロマ会、やってくださいね。」
「もちろん!」
A子は僕のほうに向き直り、手を広げた。
「東京から来たわたしの友達だよ。」
ハグしていた女性はこちらに向き直ると一瞬硬直した表情になり、すぐに家鴨口の笑顔ではじめまし
て、と頭を下げた。そしてすぐに表情が消え、 A子のほうに向き直るとまた表情を緩ませ、席に戻った。
カウンターにいる人たちは変わらずこちらを見ているが、視線はA 子に向けられていて僕のことはまっ
たく見ていない。僕に興味がないのか、A子にしか興味がないのかはわからないが、なんとなく違和感
があった。
「とりあえず座ろっか。」
A子はガラス越しに通りの見える四人掛けのテーブル席の椅子を引いた。カウンターからは観葉植物を
隔てて対角線上にある。カウンターの奥にいて姿が見えなかった長身の男性店員が、結わえた長髪の先を
揺らしながら小さなペットボトルとメニューを持ってくる。
「リリーさん、いらっしゃい。」
「マスターいつもありがと~うね!」
A子がメニューを受け取る際に手を差し伸べ、握手を交わす。
「いえいえこちらこそ。ゆっくりしていってくださいね。」
店員はそう言ったあと、僕の方を目だけで会釈して戻った。
「ここは全部オーガニックでなんでもおいしいんだよ。」
メニューを見ると、オーガニックコーヒー、オーガニックティー、オーガニックサラダ、オーガニッ
クトーストと、ほぼすべてのメニューにオーガニックと付いている。ほかにもマグロビなんちゃらや
天然酵母のなんやらなど。メニューの最後にはオーガニック・モーニング700円という品書きもあっ
た。
「モーニングもあるんだね、さすが名古屋」
名古屋の喫茶店には必ずと言っていいほどモーニングメニューがあり、しかもモーニングなのに夕方
までそれが頼める店もあったりする、というのを夕方の情報番組で見たことがあった。
「すべて素材から選んでるから、この店は信頼してるんだよね。」
A子は目の前のペットボトルを開けて二つのグラスに水を注いだ。一口飲んでみる。普通の水だ。
「どう?おいしい?」
彼女は覗き込むように僕を見た。胸の谷間が少し見える。僕はとっさにペットボトルを手に取った。
「お冷をペットボトルで出すって斬新だね。」
「これ、本場のアルプスの天然水なんだよ。」
確かにラベルには”ALPS WATER”とあった。細かい文字で英語の説明書きがあるが、何を書いてある
のかはさっぱりわからない。説明書きの端にはスーツ姿の白人の男の顔写真が付いている。この水を製
造している会社の社長だろうか。
「何を頼む?」
「おすすめでいいよ。メニュー見てもわからないし。」
「あ、お酒のめるっけ。」
「うん。」
「じゃあ、オーガニックワインにしようか。」
「いいね。」
先ほどの店員を呼び、赤ワインのボトルと、A子おすすめのオーガニックチーズ盛り合わせ、そしてオ
ーガニック温野菜のオーガニックオリーブオイル添えを頼んで注文を待った。
「リリーさんって呼ばれてるんだね。」
「そう。ここだけだけどね。」
「この店はよくくる・・・んだよね?」
「常連どころか、超常連。もうほぼ毎日いるかも。」
「へえ、いいね。僕もそういう店ほしいな。」
「自然と来るようになって、自然と集まってる感じかなあ。」
「オーガニックだけにね。」
「確かに!オーガニック・パワーかもね。」
冗談で言ったつもりだったのだが、真に受けられてしまったようだ。注文していた品が来た。ワイン
通でも食通でもないが、確かに全てすごくおいしかった。追加でオーガニック・ペペロンチー二も頼む
と、試しに入荷したんですけど開けてしまったので飲んでください、と半分ほど残った別のワインをサ
ービスでつけてくれた。そのワインもすごくおいしい。ラベルを見てみると、フランス語らしき元々の
ラベルの上に英語の説明書きが貼り付けられている。そしてその端には、さきほどのペットボトルと同
じ人物の顔写真がついていた。
「あれ、これさっきの水にも貼ってあったひとだ。」
僕が言うと、A子の顔がぱっと綻んだ。
「よく気付いた~ね。天才!今飲んでるのもさっきのも同じブランドで出してるんだよ。」
「へえ。ここが取引して輸入してるの?」
「うん。わたしもちょっと関わっててね。実はそれでほぼ毎日来てるんだ。」
「すごいね、じゃあそれが仕事?」
「いや、本業は別にあるの。写真が好きだから、ふだんは写真屋で仕事してるんだけどね。」
「カメラマンってこと?」
彼女は笑いながら言った。
「いや、ただの受付だよ。いわゆるプリント屋さん。自分の撮った写真はプリントし放題だけどね。」
「じゃあ、副業みたいな?」
「うーん。それともちょっと違うんだよなあ。説明が難しいね。ふふふ。」
A子は顎を上げて赤ワインを飲み干した。すこし斜めになった姿勢でうなじから顎にかけてのラインが
少し筋張る。
「ああ、おいしい。わたし赤ワインに弱いのよね。好きすぎて飲み過ぎちゃう。」
酔いのためか、彼女は顔を少し赤らめて力の抜けた笑顔を見せる。僕は残りのワインを全て彼女のグラ
スに注いだ。
「ちょっと、酔っちゃ~うよ。」
A子は力ないふくれ面で再び僕を下から覗き込むように見つめた。胸の谷間がさらに露わになる。慌て
て視線をそらすと、観葉植物越しにカウンターの女性客たちが見えた。彼女たちは全員こちらを見てい
たが、ぼくの視線に気づくとそそくさとカウンターのほうに向き直した。今までずっとこちらの様子を
観察されていたのだろうか。
「ねえ、このあとどうする?」
A子の声で向き直った。もうグラスのワインは空になっている。
「ここでこれ以上飲んだら、やばそう。」
グラスの縁を指でこすりながら、彼女は言った。
「よかったら、うちに来ない?」
背中からじとりと汗がにじみ出る。観葉植物がかすかに揺れた。スピーカーから流れ始めた曲は
“おいしい水”。 音量がわずかに上がったような気がした。
つづく
写真 /朝岡 英輔