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第2回鉄犬ヘテロトピア文学賞発表

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鉄犬ヘテロトピア文学賞」とは・・・

以下の精神を刻みこむ作品を選び、その作者の世界に対する態度を支持するものです。
それはまた、グローバル資本主義に蹂躙されるこの世界に別の光をあて、別の論理をもちこみ、
異郷化する運動への呼びかけでもあります。

・小さな場所、はずれた地点を根拠として書かれた作品であること。
・場違いな人々に対する温かいまなざしをもつ作品であること。
・日本語に変わりゆく声を与える意志をもつ作品であること。

ジャンル不問。日本語で書かれた文学作品、日本語の想像力に深く関わる作品を選びます。

第2回選考委員(五十音順):
温又柔、木村友祐、下道基行、管啓次郎、高山明、田中庸介、中村和恵、林立騎、山内明美

鉄犬ヘテロトピア文学賞事務局

 

第二回受賞作

◎横山悠太『吾輩ハ猫ニナル』(講談社)
◎井鯉こま『コンとアンジ』(筑摩書房)
★[特別賞]松田美緒『クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する』
(アルテスパブリッシング)

※今回の選考では、ほかの候補作にもそれぞれ根強い支持がありました。
敬意を表し、ここに候補作も掲示します。

・磯崎新/日埜直彦『磯崎新Interviews』(LIXIL出版)
・加藤直樹『九月、東京の路上で』(ころから)
・くぼたのぞみ『記憶のゆきを踏んで』(インスクリプト)
・西成彦『バイリンガルな夢と憂鬱』(人文書院)

第一回受賞作についてはこちら

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< 選考委員選評 >(五十音順)

選評/温又柔

●受賞作について

「けど異国で母国の言語を耳にするのは悪くない。方言をうらやむ必要もない。自分から出る言葉は、味も素っ気もない標準語方面ってだけで、標準語ですらない。そんなことに心細さを覚えなくて済む。異国で聞けば、母国の言語は、どれもこれも帰る場所のある言葉みたいに、聞こえたりする。フラットな。ほんの束の間。でも、もっといいのは、その束の間が消えたとき。自分は結局、自分の言葉しか持ってないと。思えてくるから。」(「コンとアンジ」より)

 私も結局、自分の言葉しか持っていません。そしてそれは、国民国家の言語として日本語を囲い込もうとする境界線の内側にやすやすと、或は、ぬくぬくと収まっていられるほど、いかなる「国家」に対しても従順なシロモノでは決してない……それが、私の、私たち自身の言葉の現状です。
 しかし未だに日本語という言語は、日本国籍を所持し、日本民族として日本国に居住するひとたちだけの母語・母国語だと思われがちです。

 国籍と民族と居住地。

 井鯉こまさんの小説・「コンとアンジ」を成り立たせている作者の言葉は、たしかに日本語ではあるけれど、そのうちのどこにも帰らない、帰れません。そして、そうであるからこそ味も素っ気もたっぷりです。駄々っ子のような愛らしい文体は、国文学とは純文学とは日本文学とは、と決めつけたがる(つまらない)重力なんて何のその、とばかりに浮遊します。私にはその軽やかさがたまらなく爽快・痛快なのです。

「それにしても、日語という語言(げんご)は実に怪体(けったい)である。汉語にしても英語にしても(フランス)語にしても阿拉伯(アラビア)語にしても皆、字種は単一である。何が(たの)しくて三つも有るのか解せない。自分は汉字(かんじ)ができるものだから汉字のみで敷衍(まにあ)わせたいのだが、それはどうやら不可能らしい。平假名のみで表すことは可能なようだが、どうも弛張(めりはり)がなく模糊(ぼんやり)していて釣られて自分まで発呆(ぼんやり)してくる。よって結局は汉字と平假名の混じった形態に安定(おちつ)いてしまうのである。」(「吾輩ハ猫ニナル」より。引用者注:本文では引用部()内のひらがな及びカタカナは直前の下線を引いた箇所のルビとして振られている)

 横山悠太さんの小説・「吾輩ハ猫ニナル」。漢字、ひらがな、カタカナ。複数の字種を備える「怪体」な特性は、日本語という書き言葉が中国語(漢語)から派生した歴史に根差しています。日本語が長い時間をかけて様々な出自の外来語をその懐に積極的に受け入れ、織り込んできた証でもあります。
 そのことを私は、充分自覚していたつもりでした。とりわけ、いつも身近にあった中国語と台湾語の響きを軽んじずに日本語を書くことで自分の言葉を追求したいと願うようになってからは。だからこそ、中国大陸で使用されている簡体字を含む漢字で示した中国語を自分の文章の一部として取り入れ、ひらがなやカタカナでルビを打つ体裁でその和訳を読ませる手法を用いた横山さんのテキストをまのあたりにしたときは、歓喜と嫉妬に打ち震えました。こういう日本語がわたしは読みたかった! こういう日本語をわたしが書きたかった! とのたうちまわったのです。

 『コンとアンジ』と『吾輩ハ猫ニナル』。

 どちらも小説だったのもあり、候補作を「選考」しているつもりが、その実は、自分自身が理想とする小説とは何かと探究する心境でした。
 日本国籍をもち、日本語を母国語とし、日本国内に居住する者だけが本物の「日本人」である、という「前提」が、刻一刻と脆弱になりつつあるのは、決してわたしの希望的観測ではないはずです。
 日本国籍をもち日本語を母国語とし日本国内に居住する「日本人」が、そうではない「日本人」たちのことを、この国を脅かす敵として疎んじるのではなく、この国の未来を共に豊かにしていく仲間として歓迎する……そんな状況を切望しながら私は小説を書きます。近頃はこう考えるようにもなりました。小説として表現する内容の次元に留まらず、その内容を表現するための日本語そのものをも、「国語」という呪縛から解き放ち、輝かせられたら……だから私は、井鯉さんと横山さんによる二つの作品を「選んだ」というよりは、同時代のこの硬直した日本で窒息しそうになっていたところ、かれらの表現と遭遇することによって、日本語で小説を書くことの快楽にまつわる、明るい予感を抱かせる何か……希望のしっぽ、とでも呼びたくなるものを「掴んだ」気持ちでいます。
 同時代かつ同世代の、ささやかな日本語の書き手のひとりとして、「コンとアンジ」と「吾輩ハ猫ニナル」に触発されながら作者たちがこれから書き継ぐ小説を夢想することは、私にとって大変に喜ばしく、そして頼もしく、また良質な焦燥感を存分に煽られることでもあります。
 わたしもがんばろう、がんばれる、がんばらなくちゃ。
 井鯉さんと横山さんの言葉に感謝と祝福を。そして、かれらとの友情のはじまりをいそいそと期待していることも、こっそり告白します。

●特別賞について

 決して一つではないニッポンの、あちらとこちらで歌われ、聴かれてきた「うた」の記憶をみずからの足で丹念に辿り、その結実を、みずからの歌唱と演奏をとおして一枚のCDの中に住まわせる。あったことすら忘れ去られかけていた美しい「うた」たちは、リスナーがCDを再生したとたん、松田美緒さんの洗練された歌唱でリスナーの目の前にあらわれる。素敵な試みだと感じました。

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選評/木村友祐

 何か見慣れないもの、未知のものと出会ったとき、心がさわさわと騒ぐ。ささくれた刷毛で心臓を軽くこすられたように。それは、整ったメロディーの整った心地よさとはちがう、違和感に似たノイズの刺激だ。
 ぼくはしかし、そのノイズ、違和感にこそ大切なものがあるように思っている。なぜなら、世界/外界はノイズに満ちたものだから。自然界がたてる物音、動物と人間の生活形態のちがい、人間同士の文化のちがい。
 ノイズに心が撹乱されると逆に安心をおぼえるのは、空調がきいて密閉されたような部屋(ぼくの心)に、たしかな現実の風をもたらしてくれるからだろう。そして、そういう外界とつながる窓となるような作品を讃えることが、「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の役割だとぼくは思っている。
 横山悠太さんの『吾輩ハ猫ニナル』は、中国語の表記に近づけて日本語小説を書くという、清新な驚きに満ちている。痛快、愉快。中国で暮らす人々のことを想像するとき、今後ぼくは、日中混血の語り手である「駿(かける)」のイメージを手がかりにするだろう。日本国内が中国脅威の論調に染められようとしている今、想像力において日中に橋を「架ける」、画期的かつ極めて重要な作品だ。作中の猫の描写が、秀逸で楽しい。
 井鯉こまさんの『コンとアンジ』は、文体自体がノイズに満ちたものだった。好悪が分かれるかもしれないが、自分にしかない世界観を表すための文体模索の試みともいえる。実際、おそらく豊富な旅の体験をもとに構築されただろう小説世界は、ただの旅行者小説とは異質な、見たことのない奇妙な光景に彩られていた。欲を言えば、謎めいたアンジの、「人物」としての魅力がもっと伝わればと思う。
 ふたりの方法がたとえ一回性のものだとしても、その独自の世界を提示しえたことの重要さは揺るがない。今後もしオーソドックスな表現を採用したとしても、おそらくそこにも、独特のノイズが内包されていることだろう。
 特別賞である松田美緒さんのCDブック『クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する』は、文化も景色も平板化する一方に見えるこの国の別の相貌、陰翳と起伏に満ちた土地と人々の営みを鮮やかに想起させるものだった。国境をも越えて歌に込められた思いをたどり、新たな命を吹き込む。美しく稀有な仕事である。

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選評/管啓次郎

 今回は二つの、気合いの入った小説との出会いをよろこびたい。いずれも文体創出への驚くべき意志がある。そして文章がただちに仮定された現実をその場に召喚する、言語芸術の性質にしたがって、この二作は読者に旅をさせる。ありえない、でもありそうな、遠い場所にむかって。
 『コンとアンジ』では、それがどことも知れないアジアの国で、『我輩ハ猫ニナル』では、それは中国語と日本語のはざまのノーマンズ・ランドだった。前者は一人称の使用やセクシュアリティの感覚にも細心の注意を払い、後者は三つの文字体系で表記される書き言葉としての日本語の特性とルビという天才的発明を、極端なまでに活用している。どちらも物語は、特に結末は、やや弱い。けれどもおよそ文字化されたことの少ないリアリティ、日本語がさらされている葛藤の最前線を、みごとに問題化している(たとえば「猫」が可視化した言語状況を生きる人の数が飛躍的に増えつつあることは、大学という場から見ているだけでも実感できる)。
 二つの受賞作に加えて、念入りな調査に立ってわれわれの歴史観を押し広げてくれる『クレオール・ニッポン』のために「特別賞」という枠を設けることにした。歌はうたわれなければ歌ではない。歴史と地理のかたすみで眠っていた歌を、のびやかな声でみずみずしく甦らせたこの意欲作は、人に世界を渡るための勇気を与える。
 こうしてそろった三作とともに、日本語社会の現実がみずからのずれゆきによってヘテロトピア化する途を、われわれはこれからも見つめてゆきたい。少なくとも、とんでもないペテンの一端が明らかになったばかりの、恥ずべき拝金主義のモニュメントの祭典が東京にやってくるだろう2020年まで。早くも来年度が楽しみです。

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選評 「のしのし」と歩くために/田中庸介

 卓越したことばの方法意識と、アジアの〈風物〉の的確な描写。今回の候補作の中で『コンとアンジ』『我輩ハ猫ニナル』の二作は、これらの点において他の追随を許さない、詩的な輝きを放っていた。
 しかし、選考会の席上、私たちの心には「これでいいのか?」というかすかな疑問が芽生えた。純文学というものは、もっと登場人物相互の葛藤によって、ストーリーがしっかりと構築されてしかるものではなかったか? 方法意識と風物だけの、こんなふわふわした展開のものを、われわれは小説として評価できるのか――。
 予想もしなかったことだが、今回これら二作の追い風となったのは、『クレオール・ニッポン うたの記憶を旅する』に添付されたCDの出だしのピアノのパッセージだった。圧倒的な力をもってわれわれを〈ヘテロトピア〉へといざなっていこうとする松田美緒さんの高い音楽性が、ジャンルを超えて、本来われわれが追究すべきことは何か、ということを思い出させてくれ、これらの候補作が他の作品をぐんぐんと追い抜く足の速さを見せた。
 人と人との葛藤を素通りして、一刻も早くパラダイスに駆け込みたいという現代人の衝動。それでも時の切れ間なく人は生き続けるし、そこに必然的に積みかさなる重さとえぐみ、それが「のしのし」(『コンとアンジ』)とわれわれを歩かせる。この移動の必然性の表象として、これらの受賞作に賭けたい。

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選評/中村和恵

 『吾輩ハ猫ニナル』の文体に脱帽。やまとことば(音)+古代中国語(漢字表記)→見事なクレオール文字文化としての日本語、の体組織に、カタカナ語(音声のみ=翻訳努力放棄・意味不明の西洋経由諸語)を目下増殖中のいまの日本語から、カタカナ語を引き現代中国語の音と表記を臨機応変・恣意的にはめこんで、新たな東アジア漢字文化圏の書きことばを日本語ベースで試作した。簡体字や中国語の表記・音声が次第に文中に増えていって、ややわけがわからなくなるようなところが、とくにおもしろい。世界は基本わけがわからないんだから、文学作品にわけがわからなさがどこにもなかったら、発見がないってことだとおもう。最後の方、もっとどんどんわからなくなってたとえば全部中国語になったらもっといい、というのが勝手な感想。
 『コンとアンジ』は読んでいる間中、コンを揺さぶって「あんたなにやってんのよ止しなさいよそんな男にふらふらついてくの」といってやりたくてしかたなかったけれど、そんなコンの思いつめて抱えこんだひとりの気持ちのありようが、とてもこの国のいまの心を写している、そのことは間違いない。こういう思いを抱えたひとを、ことばで、どうするといいんだろう。見守る井鯉コマさんの視線。著者と話がしたいとおもう作品だった。
 『クレオール・ニッポン』がたどる日本の南や北の歌の源は、開かれて風通しよく、国境も時代も歌がやすやすと越え流れて伝わってゆくさまが光り輝くよう。ことばのわざのみに命を懸けてゆくひとをまず大切に評価することが文学評価の場ではやっぱり第一に大事なわけだけれど、音やイメージとともにことばが命を得る場面も目に留めていきたいとおもった。

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選評/山内明美

『吾輩ハ猫ニナル』

 いま、「日本語/国語」の創出過程を知る人はほとんどいないだろう。明治のはじめ、標準語に「東京方言」が採用された。森有礼の英語採用論や前島密の漢字廃止論にいたる喧々諤々の議論があった。「日語」はいつも英語と中国語の狭間で、右往左往してきた。結果的に、中国語の漢字、欧米語をカタカナで、そしてそれらをつなぎ合わせて「日本語/国語」ができあがったともいえる。
 横山さんは、もうひとつの日語の可能性を展開して見せた。日本と中国を闊達に越境するのでなければ、このような言語は生み出せなかっただろう。
 もうひとつの言葉を抱えて、アジアを行き交えたら、いい。

『コンとアンジ』

 〈コン〉に会ったことがある、と思う。
 いつか、アジアの安宿で居合わせた。
 ある朝、私が宿の屋上で異国の景色を眺めていると、〈コン〉があがってきた。そうして、彼女は屋上の手すりにいたサルに手を出して咬まれたのだ。わたしの目の前でその「事件」は起きた。どうして、わざとそんなことをしたのだろう、と私には思われた。時々、その〈コン〉を思いだして、私は、どうしようもなく逆なでされる。
 「租界」は、いつも、出会いを逆なでする。

『クレオール・ニッポン』

 津々浦々の詩(Uta)が、空に解き放たれて、地球をぐるりと包み込んだようだった。相馬の大漁は、解き放たれて異郷の詩になるだろう。記憶は無くならない、積もって積もる、美味しい魚が、食べられる日まで。

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*残りの選評は、こちらのページで順次掲載していきます。

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