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第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞発表

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【第4回受賞作】
◎崎山多美『うんじゅが、ナサキ』(花書院)
◎仲野麻紀『旅する音楽 サックス奏者と音の経験』(せりか書房)

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10月6日、明治大学中野キャンパスにおいて第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞の選考会が開かれました。様々な角度から議論した結果、前回に引き続き今回も、2作同時受賞となりました。崎山多美さんの『うんじゅが、ナサキ』と、仲野麻紀さんの『旅する音楽 サックス奏者と音の経験』です。

崎山さんの『うんじゅが、ナサキ』は、沖縄言葉を中心に据えた、言語的冒険に富んだ作品です。あるときだれかから送られてきたファイルの記録に導かれ、主人公は訪れる先々で不思議な人々に出会います。現実と非現実の境界がゆらぐ物語から、たとえ忘れられても消えることのない、沖縄が内に抱えた傷跡が浮かび上がってきます。
仲野さんの『旅する音楽 サックス奏者と音の経験』は、演奏活動の紀行文でありながら、西洋の音楽理論ではとらえきれない音楽の存在について、また他者とのかかわり方などについて深く考察する思索の書でもあります。文化の異なる他者との間には、ときにわかりあえない断絶/絶望があることを認め、ありのままを肯定する態度に目を開かされます。

2020年までの折り返しともなる、今回の鉄犬ヘテロトピア文学賞。崎山さんは沖縄で、仲野さんはフランスを拠点に活動されています。授賞をきっかけにつながることで、なんらかの励みになるのであれば、それは選考委員にとっても大きな喜びとなります。今回の2作もまた、ひとつの価値観ではとらえきれない、世界のナマの姿を伝えてくれます。

鉄犬ヘテロトピア文学賞事務局

第4回選考委員(五十音順、敬称略):
井鯉こま、温又柔、木村友祐、姜信子、管啓次郎、田中庸介、中村和恵

第一回受賞作と選評はこちら
第二回受賞作と選評はこちら
第三回受賞作と選評はこちら

鉄犬ヘテロトピア文学賞とは…

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【受賞の言葉】

受賞の言葉/崎山多美

陽の当たる場所がきらいだった。ある時期、明るい場所がきらいな本当の理由は、書き始めたせいだと気づいた。「日本語」で書いているのに「日本語」にならない「私」のコトバは、予め奪われていたことに。私の中の半端な「土着語」が公の「日本語」に反抗を企て始めた。それは、沖縄の歴史の底に追いやられた死者たちの言葉を引き受けることだ、という、気負いのような覚悟のようなものに後押しされた。もそもそと書き続け30余年になる。思いがけなく、明るい場所から声を掛けられ、目をぱちくり、おろおろしている。こんなヘンな小説を選んでくださった選者の方々に感謝。

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受賞の言葉/仲野麻紀

賞をいただいた今、日本でのコンサートツアーの真っ只中です。ギリシャ人歌手、シベル・カストリアディス、フランスからはピアノのステファン・ツァピス、ウードのヤン・ピタール。彼らと共に、”ヘテロトピア”という、ギリシャ語を起源に、語彙の形成から思想へといたるこの言葉を、沖縄公演で訪れたこの地、目の前に広がる海をみながら読み解いています。
そして今ここ沖縄で起こっていることも…
ブルターニュ、パリ19区、レバノン南部、レマン湖の空が白む明けの5時。時計を見ては7時間あるいは8時間を足し日本時間を数え、自分が生きる地とは異なる地で生きる人々、だあれもいない山々で息するものたちのことを考えながら文章を綴った日々を思い出しました。もちろん、原稿を心待ちにする編集者の心情が一番気になってはいたのですが…
移動をしながら演奏をする「旅する音楽」では色々なハプニングがつきもので、例えばカンボジアの小学校での演奏の後の犬事件により、メンバーと離れ離れになったウード奏者は、一人経由地クアラルンプール空港で薬をもとめさまよい歩き、演奏日当日のサウンドチェック時間直前に成田空港に着いたその姿はまさしく鉄を纏った犬の如く。
東京公演ではこのウード奏者、ホテルに戻るのはいつも朝8時頃。どうやら新宿2丁目、あるいはゴールデン街をはしごし、夜の街、朝を迎える街のフィールドワークに勤しんでいる。「自分が知っている言語、人々の中だけで生きるなんて考えられない。耳慣れない言語、空間の中にいることに、生きる実感を覚えるよ。」メンバーがホテルのチェックアウトを始める頃、移動の車内で寝る彼の姿は、街を徘徊しつくした犬が、公園の草叢で一時の休息をするが如く。
今、頭の中には、鉄犬ヘテロトピアに想いを馳せる旋律、あるいは音の連なりが、鳴り響いています。
この賞の選考委員の皆様をcamarade、同志と呼んでいいならば、いつか同志の前で祝音を捧げたいです。
この賞の存在はまた、演奏する犬々と共にヘテロな世界を旅することでしょう。
心よりお礼申し上げます。

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【選 評】

管啓次郎

 第4回の今年はわれわれの賞(全7回)の折り返し地点。2020年にむかう東京バビロンの姿をきちんと見すえつつ、この偏狭なメトロポリスを世界史へと開いてゆく、そんな気持ちをこめて選考を進めた。そしてまたもや、われわれは多くを学ぶことになった。

 印象的ないくつかの候補作については、ここではふれない。受賞していただいた2作についてのみ。

 『うんじゅが、ナサキ』を読み終えて最初に思ったのは、骨の物質的強さだ。ヒトの生前と死後を通じて、もっともよく同一性を維持するのは骨。もちろんいずれは朽ちて分解にむかうにせよ、死後もかなりの期間、そこにそうしてあるだろう、みずからの移動能力を捨てて。その特性からして、骨がヒトの記憶をもっともよく担う媒体となっても、おかしくはない。もしいまここに骨の山があるなら、そこにたゆたう記憶のすべては、とても捉えきれるものではない。しかし、その記憶集合への不可能な接近を通じてのみ、われわれは忘れてはならないことを思い出せるかもしれないのだ。書かれなかった過去を、見えない歴史を。文字を超越する地平をしっかりと見すえるこの作品の志に、ぼくは打たれた。その思いは、他の選考委員にも共有されたと思う。

 『旅する音楽』は、まさに音楽からの贈り物。色のちがうふたつの水流が互いに入り交じることなく長い距離をゆく河があるが、そのように音楽と文学の並行する風景をそのままに演じてくれる、得難い本だった。何よりも、生きている、彼女は。もがくように、しがみつくように、生きている。そして著者の生きる努力が、人と人、土地と土地、音と音をむすびつけ、予測のつかなかった新しい音楽を生み、音楽が言葉による省察を触発し、その言葉がふたたび彼女の生を別の方向にむかわせる。そこに生じるのは勇気、人を励ます力だ。誤解をおそれずにいうなら、ぼくは仲野さんにフィクションを望まず、詩を望まない。事実を、生きられた日常を、そのままに書いてほしい、これからも。そこに生まれる感動が、われわれに「文学とは何か」という問いを、ゼロ地点からふたたびつきつけるのだから。

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姜 信子

 ずっと大昔から、人は、物語を聞いて語って歌って、ときには踊って泣いて喚いて笑って、そのすべてが見えないものたちへの祈りのようなもので、つまり、人は祈りとともに生きて、死んで、命をつないできたんだろうと私は思っているのですが、そんな物語する声の中から文学もまた生まれでたのだとも思っているのです、(とはいえ、祈りは呪いでもありますからね、祈りが遥かな光への眼差しならば、呪いは深く震える闇の音、なのかもしれません、が、それはさておき……)
 声は体を吹きぬけてゆく風のようなものでしょう、体を吹き抜ける声は、この世をめぐる風とともに、<いま/ここ>に束の間の語りの場を呼び出すものでしょう、そのとききっと人は欲望するのでしょう、この声を文字にとどめてやろう、風を言葉に変えてやろうと、(などと考えると、文学というのは、人間の怖れ知らずの一つの現れなのだろうと、あらためて気づくような次第であるのですが、ともあれ)
 そうやって綴られた文字に風の記憶が漂っている、吹き抜ける風で行間が揺らめいている、こちらからふっと息を吹きかければ遥かな彼方へと、海を渡る鳥たちのように文字がハタハタと羽ばたいていくような、あるいは奈落の底へと降りていくような、そんな気配を色濃くたたえている文学との出逢いはよろこびです、その文字を目で追う私もまたハタハタと思いもよらぬどこかへと漂い出して、風になって、この世をめぐるのだ! 語るのだ! 歌うのだ! 祈るのだ! 呪うのだ! 生きるのだ! というようなことをつくづくと思わせてくれたのが、崎山多美さんの『うんじゅが、ナサキ』であり、仲野麻紀さんの『旅する音楽』でありました。
 風。と、しきりに私は言っておりますが、それは死者たちの息吹、と言い換えることもできましょう。
 たとえば『旅する音楽』、そこでは息を震わせて音を奏でる、土の上で奏でる、海辺で奏でる、死者に向けて奏でる、その音を聴く死者の体が柔らかくなる、空気が揺れる、神に触れる、奏でる音は花と交換されることもある、発酵することもある、死者も生者もともに音に震える、生きている、そんな世界を旅ゆく仲野麻紀さんの体を通り抜け、サックスを吹き抜けて、この世をめぐる風の物語が届けられれば、私の中の死者たちも身を震わせて目覚めるようなのです、ああ、そうだった、と私は風に吹かれて思い出すのです、私の生の大半も死者たちによって形作られているのだった、この死者たちを忘れてしまえば、昨日もなければ明日もない、ましてや祈りも歌も文学もない……。
 あるいは、『うんじゅが、ナサキ』、これは寄せては返す波のように果てしなく訪れくる死者たちの呼び声であり、その呼び声に応えてくりかえし旅立つ者たちの声です、それは永遠の死者と生者の対話です、そう、永遠なんですね、そこにあるのは、Q村の目には見えない海辺や崖や地底に力ずくで封じ込められたまま、誰かに確かに聴きとどけられるまではけっして沈黙することのない永遠の声だから、(しかし、どうなれば確かに聞き取ったことになるのでしょうか? 耳に聞こえた声をただ文字に記録したならば、聞き取ったことになるのでしょうか?)、問いにまみれた旅の記録は、ひとりの「わたし」が声に呼ばれて旅立つたびに更新される、声に呼ばれた無数の「わたし」は旅の途上で懐かしい「アナタ」に出逢う、「わたし」たちは「アナタ」の悲しみと祈りを想い起こしては、こう呟く、「アナタとの出逢いがいつだったにせよ、わたしはもう、デキゴトの起こったトキの詮索などするのは、よそう。何かモノに急かされてやってきたタビ先での奇跡のようなヒトビトとの出逢いは、今や、生まれる以前のデキゴトのようにも、これからやってくる世界でのデキゴトのようにも感じられるので。そんな感覚に支配され、行く当ても帰る当てもないままにわたしはこのタビを続けなければならないことだけはよく分かっていたから」。
 風に震える心のあるかぎり、声に応えんとする思いのあるかぎり、困難な問いを手放すまいとする闘いのあるかぎり、崎山多美さんの、そして仲野麻紀さんの孤独な文学/音楽の旅はつづくのでしょう、それは、世の孤独な旅人たちへの大いなる励まし。
 崎山多美さん、仲野麻紀さん、ありがとう! そして、第4回鉄犬ヘテロトピア文学賞受賞、おめでとうございます!
 最後にお二人の果てしない旅の幸いを祈って、旅の呪文を贈ります。

 絹ぬ上から かりゆし
 布ぬ上から かりゆし
 海上穏やか 一路平安
 かりゆし かりゆし

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井鯉こま

 鉄犬ヘテロトピア文学賞には、たしかに選考基準はあるのですが、それぞれの作品のジャンルが違くって、どう読み比べていいのかわからないところがあります。今回の選考会でも「文学とは何か」「これは文学の言葉ではない」という言を何度か耳にしました。おそらく、内容だけでなく、内容の書き方なのかな、と思います。鉄犬ヘテロトピア文学賞の基準でいえば、「日本語に変わりゆく声を与える意志をもつ作品であること」にあたるのでしょう。
 仲野麻紀さんの『旅する音楽』は、ドキュメント作品です。他者に対する寛容と、自分を変容させていく演奏活動、そして、グローバリズムに対する違和感からくる省察が、この本の書き手であり旅人でありサックス奏者である仲野さんの経験・記録の文章からしっかり伝わってきます。天地から生まれる音の粒立ちが、人間たちが奏でる音楽となりゆく場。その境界で生じる衝突と自己の変容、その限界。
 仲野さんの書く日本語に、「変わりゆく声を与える意志」を求めたいかというと、そういう欲望を読者の私は掻き立てられません。『旅する音楽』は、文章が書き表そうとしている、音を求める精神や音楽こそが、表記の向こう側の内実なのだとしみじみ思い至れる作品です。ああこれが、実奏者のことばなのだと。私は、仲野さんが音を追い求めているその場に、自分も居たくなり、行きたくなり、音をききたくなりました。
 対して崎山多美さんの『うんじゅが、ナサキ』はちがいます。フィクションとして読むしかありません。つまり読者の私は、フィクションを生成していく小説言語にまず目と耳が反応してしまうのです。この作品を読むと、小帝国言語・N語の瓦解が、音を立てて私の体を貫いていく。紙面が、その場、境界そのものです。読者の私は、すでにそこに居て、〈彼ら〉と対峙している。
 虚構をつくっている文体は、体にちがいありません。それは、言ってしまえば字の列・文様に過ぎず、ともすると、どんな装いも可能なのですが、しかしこの場では、虚構をつくるための実践、血肉、文体なのです。死者たちの声を体温として。『うんじゅが、ナサキ』に、それ以外の体はない。ほかに選択肢はない。たとえ、ある種の小説的な形が破綻しようとも。
 「読者」とともに「作品」を生成していく、生成したい、その生成こそが、フィクション作品の内実である、と私は信じていますから、陰ながら応援せずにはいられません。そうして、崎山さんの作品は、いつしかこんな書物を読みたいと、望みをいだかせるのです。〈琉球語〉ベースの語り口を解体、再生させる小説言語は可能なのでしょうか、あるいは、「〈琉球語〉ベース」などという、いかにも小帝国的発想の皮相さをはるかに越えた、何語でもない、かけがえのない、豊かな小説言語の作品に、出会う日が来るかもしれないと。いや、私が単に未熟で、まだそのことばたちに、読者として選ばれていないだけなのだと。

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田中庸介

●うんじゅが、ナサキ

 幻想的な現代沖縄ファンタジーに打たれた。沖縄の都市の足元には戦跡が埋もれるが、実はその下には王朝文化の豊饒な海がある。琉球の「球」らしい「Qムラ」を舞台に、この世になきものの世界へと召還される主人公は「チルー」と呼ばれる。勘のよい読者は琉歌の名歌人、吉屋チルーの名を思い出すだろうが、作者は知名定男からのタイトルにそれを暗示させるだけで筆を止める。その慎重さに、沖縄文学の内部にある複雑さが垣間見えた。

●旅する音楽

 こんなに楽しい本はなかった。アフリカの葬祭音楽屋さんを三年かかって招き佐渡の祭太鼓と共演してもらうとか、ばらばらの国から寄り集まった五人が一つの音楽を「鳴らす」とか、四百年前から「精神的ないたわりの儀式」として行なわれてきた音による治療とか、スケールの大きすぎる話ばかり。だがそこにいつもあるのは、吹きぬける風と、それを震わせる音の粒子。音楽がわれわれの心を直接揺さぶることを、本書は思い出させてくれる。

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木村友祐

 崎山多美さんの『うんじゅが、ナサキ』。ここで描かれているのは琉球王国時代や沖縄戦のことだろうと思いつつ読み進めるのだが、「Q村」のところで、どうもヘンだと思いはじめる。もしかすると本作には、史実ばかりではない、〝あったかもしれない過去〟も描かれているのではないか。
 かつてあった過去、あったかもしれない過去。それらの過去と対面するうちに、語り手は前世の自分の記憶なのか、それともまったく他人の記憶なのかも定かではない〝イタミ〟を、自身の痛みとして感じはじめる。さらに、過去と未来の区別さえ判然としなくなる。「生まれる以前のデキゴトのようにも、これからやってくる世界でのデキゴトのようにも感じられる」。
 沖縄の過去をめぐる旅に見えながら、これからぼくらが迎えるだろう世界、姿を見せない〝テキ〟との戦いを強いられるような世界のことも描いているのかもしれない。
 語り手が出会う人物たちの奇矯な身ぶりや思わせぶりが気になったものの、過去のだれかの痛みさえも我が事の痛みとして共有すること、過去は未来でもあるという視点に大きく頷いた。
 読後、読み手の胸のなかには、なんとも言いようのない異物感が残る。翻訳なしで作中に放り込まれた島言葉のように、それこそが、ヤマトに吸収されることのない沖縄そのものの姿、消そうとしても消せないわだかまりの存在感だろう。

 仲野麻紀さんの『旅する音楽 サックス奏者と音の経験』。文章の繊細さと思考の硬質さを兼ね備えた本書は、まず、この世界の中で音が鳴り、聞こえるということについての認識を変えてくれる。人も生きものも、モノさえも、絶えず音を発し、音に包まれている。世界はこんなにも異なる響きで〝鳴っている〟と気づかせてくれる。
 また、ブルキナファソのバンフォラで、レバノン南部のナバティーエで、モロッコではスーフィー教団の楽士たちと。三重県志摩市の五知では、ご詠歌を唄う女性たちとともに。それぞれの生きる営みの中で鳴らされる音楽に、著者はサックスの音色を重ね、共振する/同期する。音楽を通じて、違うことの〝ノイズ〟をも悦びとして受容する。そこに一貫している態度は、西洋音楽の知識では汲み取れない音楽があると知ること、その混沌に身をさらすこと。
 一つの価値観を絶対視しない著者の姿勢に、これからの世界を「共に」生きるための、大切な手がかりを教えてもらった。

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中村和恵

 あらためて考えてみれば文学とは無謀といっていいほど大それた試みだ、ことばだけで世界をつかもうとするのだから。崎山多美の小説『うんじゅが、ナサキ』には、世界の闇と光をことばだけで探る書き手のもどかしさと果敢さ、ことばに身魂を賭ける試みがある。その文体はいわゆる標準化された日本語と、標準化を拒む口語の語り、そして異なる知と感覚の存在をくっきり照らし出す沖縄ことば、それらの間に生じるグラデーションを行き来し、まさにローカルであるからこそ間民族的=インターナショナル。日本語がほつれる端から豊かになっていく。わたしも風(カジ)がばぁばぁする道をデージ怒った顔で毛(キ)ーブルッチャーしたりミーパチパチしながらなんとか歩いていきたい。
 ことばのない、ことばのいらない世界で表現の可能性を追求する人々が、あえて自らの関心をことばで語るときも、読む者に豊かな驚きをもたらすのは、書き手の果敢な模索だ。仲野麻紀『旅する音楽 サックス奏者と音の経験』は、たくさんの土地を旅した音楽家の発見がぎっしりつまったエッセイ集。その語り口はよどみなく自在だが、絶えざる問いかけと探求に満ちている。音楽の根源にある「共振」への切望は、多種多様な民族の境を越え、自他の境を越え、個人の生を越えてゆく。その瞬間に命をかけるのだという演奏者は、「国」に閉ざされない文化を見つめている。

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*2017年12月15日、法政大学で講演された崎山多美さん(写真右)。
講演後、選考委員代表で中村・木村がお会いし、正賞の鉄犬燭台をお渡ししました!

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