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第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞発表

【第6回受賞作】
◎川瀬慈『ストリートの精霊たち』(世界思想社)

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 7月1日(月)、明治大学中野キャンパスにて「第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞」の選考会が行われました。各候補作についての活発な議論の末、全会一致できまった今回の受賞作は、川瀬慈『ストリートの精霊たち』(世界思想社)です!
 本作は、エチオピア北部の都市ゴンダールで出会った路上の人々──物乞いや物売りや音楽芸能を生業とする者たちの姿を、痛みと愛情のこもったまなざしで伝える傑作です。エチオピアという遠い地を、我々になじみ深い「近さ」へと変える瑞々しい語りがすばらしく、かつ本書でしか得られない感銘に、読みはじめたらきっと止まらなくなります。

 受賞作の発表は、7月15日(月・祝)、下北沢の本屋B&Bで開催されたイベントにて行われました。そのイベントは「鉄犬ヘテロトピア文学賞」をテーマにしたものですが、この賞自体をテーマにしたイベントは、じつは初めてとなります。選考委員からは、管啓次郎さん、井鯉こまさん、温又柔さん、木村が参加しました。

 まずは管啓次郎さんが、5月にシカゴ大学で行なった「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の軌跡と意義を伝える英語のスピーチ「ある知られざる文学賞の栄光について」を日本語で再現。産業とは結びつかないこの文学賞が切り開いた新たな世界、そして文学が持ちえる可能性の広さと厚みを示し、深い感動を呼び起こしました。

 その後いよいよ、温又柔さんのスピーチにより、受賞作の発表となりました。発表と同時に温さんがツイッターでも発表。受賞者の川瀬さんに向けて「これを見たらB&Bにお電話ください」と書いたところ、なんと、受賞作についてトークをしているときに、ご本人からご連絡をいただきました!
 まさかのうれしい展開に、会場は大盛り上がり。そして、この賞は受賞者が拒否しても押しかけて差し上げる賞なのですが、そのような乱暴を行使する事態には至らず、その電話で無事に、川瀬さんに受賞を快諾していただきました。

 川瀬さん、おめでとうございます。そして、ありがとうございます!

鉄犬ヘテロトピア文学賞事務局・木村

第6回選考委員(五十音順・敬称略):井鯉こま、温又柔、木村友祐、姜信子、管啓次郎、田中庸介、中村和恵

第一回受賞作と選評はこちら
第二回受賞作と選評はこちら
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第四回受賞作と選評はこちら
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受賞のことば

川瀬慈

ストリートはどこまでものびていく
毛細血管のように 世界のすみずみまで

ストリートのむこうには
人の気配がないアメリカ陸軍の通信基地が不気味にたたずみ
さらにその彼方には青緑の海がはてしなくひろがり輝く

かつて娘たちは遠くの集落まで塩を運び
それを薪と交換し まーすけーい歌(塩替い歌)を歌った
かりゆしパーパーと呼ばれる女性の集団が
愛する人を乗せた船が旅立つのをながめ 歌い祈った
人々は世界の幸せを祈願し 数百人規模で近隣の村々に乗りこみ
芸能を通した交流 アシビトゥイケーを行った

目をとじ耳をすませば
塩を運ぶ娘たちの笑い声と
哀しみ 喜び 祈りにみちた歌声がかすかにきこえる
声の交響は また新たなストリートへと私をいざなう

私は吠える
青緑の海にむけて
いびつに区切られ分割される世界にむけて
グローバル資本主義の欲望の渦にむけて
国家機構が与える圧力にむけて
そして 因果のむこうにちらつく意思にむけて

小さな遠吠えかもしれないが
群れからはぐれた仲間を呼び戻す声なのかもしれない
仲間たちからの返答の声は 大きな渦となり
そこらじゅうにただようネフス/魂とコレ/精霊を揺らし
センマイ/空にまでとどき
やがて世界のストリートは どくどくどくどくと脈打つだろう

そして歩くこと
私はこのストリートを歩くことを選ぶだろう
いにしえの森のけものみちを
波のない静まりかえった海面を
滝のように流れ出す溶岩を
崩れ行く氷河の塊を
踏みしめるたびに不思議な音がする橙色の砂漠を

このストリートはどこまで続くのか
この歩行にゴールはあるのか
なぜ私は歩くのか
このストリートをただ歩むために歩くのだろうか
思想や理論の網がとらえることのない
ざらざら さわさわ からから はらはらした
触感をたしかめるために歩くのか

肌を焦がす灼熱の太陽はやがて臓腑に届き
強い雨は四肢を削りとる
それでも私は歩みをとめないだろう
私は闇夜の底を這う獣となり
土の中でまるくなって眠る幼虫となり
やがて大海にそそぐ雨のしずくとなり
あなたの頬を優しくなでる風となり 歩みをすすめるだろう

ストリートの脈動
それだけが確かなもの
脈動の重唱を指揮しながら
突き動かされ 揺らされ 導かれ
私はまた歩みをすすめるのだろう

読谷村にて 2019年8月4日

※第6回鉄犬ヘテロトピア文学賞、ありがたくいただきます。

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【選 評】

選 評/管 啓次郎

 エチオピアについてわれわれは何を知っているだろう。キリスト教がもっとも古いかたちで残っている国、高原の国。妙に日本の歌謡曲にも似た独特なメロディーのエチオピアン・ジャズが演奏される国。そして民俗学の歴史に少しでも興味のある人なら、たとえば両大戦間フランスのミシェル・レリスが強い興味をもった精霊信仰の国だということも、ただちに思い出せると思う。
 今回の「鉄犬へテロトピア文学賞」が選出したのは、まさにレリスの直系ともいうべき、古い街ゴンダールの精霊信仰と音楽文化を研究する、若き映像人類学者のメモワールだ。川瀬慈の人となり、五感の動き、心の揺れのすべてが、飾らないしずかな文体で語られる。もちろんこれは研究書ではないが、濃密な研究のかたわらにある、断片的な記憶の人類学とでもいうべき著作。人類学者の夜の思考。そしてそれは、どんな「学」をも超えて、ただ「文」と呼ぶしかない精神の痕跡に、姿を変えてゆくだろう。
 先駆的なアフリカニスト、故・西江雅之先生の初期の本を思わせる、鮮烈な情景が次々に登場する。たとえばこんな一節を引用してみようか。

 「そして、十代の少年であるゲダモの口笛。ゲダモは喉と口蓋で音を共振させ、独特の不思議な音色の口笛を吹く。同時に指で頬をはじいたり舌で音をとぎらせたりして、口笛にアクセントを刻む。ピアッサの路上ではゲダモのほかにも口笛で金をかせぐ少年がいるが、みな目が見えない。彼らはゴンダールから百キロメートル以上離れたシミエン山地の麓の村々からヒッチハイクでこの街にやってきた。ピアッサに来れば、目がみえなくても芸でなんとか生きていけるのである。」

 冒頭近くのこれらの文から、ぼくは川瀬の世界にひきこまれ、目を見開き、耳をぴんと立て、あざやかな気持ちでこの作品の時空を横切ってゆくことになった。それは長い距離を歩く遠征で、映像のない映画であり、文字が奏でる音楽だった。遠い大陸の人々の生が、あらゆる隔てを超えて、まざまざと感じられる気がする。それは読者の勝手な思い込みかもしれないが、この感触を除いてはエンパシーもシンパシーもなく、世界の響きも連結もない。まぎれもない傑作だ。この極悪非道のグローバル世界をわたってゆくわれわれに勇気と希望を与えてくれる、薄くて、空のように広大な傑作だ。

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選 評/井鯉こま

 夢のような印象、しかも、仄明るい夢のような。けど内容には一部の虚偽もない、厳しい現実なのだ。では何が、夢のような印象を与えるのか。
 私(=川瀬さん自身)、君(=ストリートで働く少年)、君(=バーの娼婦)、彼(=かけだしの聖職者)、おまえ(=渡欧したい若者)、アニキ(=米国のエチオピア移民)、私(=十字架)などなど、さまざまな語り口でゴンダールの人々が並べられていく。並べる? いかにも無機質ないい方ではないか。 物や民族文化を並べ展示する博物館のようだ。すると、博物館のガラスケースに展示された「十字架」が切にいう、「私に触れてください」と。
 無機質といえば、確かに聞こえがよくない。書き手の主張は希薄であり、つまり、この厳しい現実はいかがなものか、なんてことはまずいわない。たとえば、アフリカ、ストリートの子どもたち、物乞い、これらの言葉から単純に想起されてしまう流通的意味や反射的抒情を回避するために、書き手がどんな細部をも見逃さずに〈物〉をつぶさに表そうとするのと同じ手つきで、たまご売りのチャイナは、アズマリのタガブは、吟遊詩人のテラフンは、ゴンダールの人々は、書かれていく、はず。そう、〈はず〉なのだけど、いわばそれは前提で、準備運動なのだ。書き手に精霊が憑くための。不意に、「私の体内で脈打ち続け、ふとしたときに内側から、湧き上がってくる」曾祖父にまつわる山寺の鐘の音やバンクーバーのさびれたバーで演奏したときの苦いシャウトの記憶、それらの祈りの音が、時空を越えてゴンダールの歌声に交響し、三たび祈るための。
 だって当然、ゴンダールのあの子もこの子も、〈世界をにぎやかし、したたかに生きてる、だからこそ人の世は豊かだ〉とかなんとかいうコピーをつけられコレクションされるべく生きているわけではないのだから。
 川瀬さんがさまざまな語り口で書く最初から、それはすでに繊細にはじまっていた。自身のまなざしを直接的に書いているわけではない。「でも待てよ、そんなに悪いことばかりでもないか、と、同時に考える君を、私はちゃんと見守っている。」文章としてあるのはこれくらい。けど全編にわたって川瀬さんのまなざしは書かれる、というか、書かれてしまう。ゴンダールの彼らを書けば書くほどに。この受動的な主体(矛盾するいい方だけど)の川瀬さんは、徹底して見守っている。うらぎられ、もだえ、どこまでも親密に、見守っている。すると、まなざしは語りだすのだ、夢のように仄明るい世界を。本書を読んだわたしは、現実に立ち現われるその仄明るさに触れ、精霊たちにかこまれる。
 なぜこんな場で解説じみたことを書いたのだろう。好きな感じの書物を、評価せよとせまられたとき、好きは好き、それじゃダメ? とぼやきつつ、内心それじゃダメとわかっているから、躍起になったのだ。

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選 評/温 又柔

 「グローバル資本主義」へのささやかな抵抗としてこの賞ははじまったのですが、川瀬慈さんの『ストリートの精霊たち』が受賞作として加わり、今、腹の底から幸福な力が湧くのを感じます。
 この本には、「詩とも散文とも、短篇小説ともつかない様式」あるいは「断片的なモノローグであったり、ダイアローグのような形式」によって、日本語というかたちを与えられたさまざまな声が、清らかに束ねられています。
 「エチオピア北部の都市・ゴンダール」は、ここからとても遠い。そこがどんな場所なのか、少なくとも私は、これまでの人生において具体的に想像する機会がありませんでした。それなのに、ひとたびこの本をめくれば、「ピアッサの精霊たち」の、ただならぬ存在感は、いきなり押し寄せてきたのです。
 アフリカを、エチオピアを、ゴンダールを、ストリートを、そこに渦巻く、一筋縄ではゆかない物語を、おそらく五感以上のものをとおして感知し、声を与えようと努めた著者が、「アフリカは、ふとそちらからやってきた」と記すように、「ふと」迫ってくる、未知なるものの気配とともに、私は夢中になってこの本を読みました。
 音楽をなりわいとする「アズマリ」と呼ばれる楽師をはじめ、物売りや物乞い、世慣れない観光客をターゲットに稼ぐ若者……ゴンダールのストリートを経済活動と生活の基盤にする人々と、そこに息づく「コレ」こと精霊たちを描くときの川瀬さんの文章には、(日本語ネイティブである)私たちが思いこんでいる、日本語とはだいたいこういうものだろう、という限界を超えようとする意志が感じられます。
 言うまでもなくそれは、非日本語的な要素を装飾的にちりばめるといった、表層的なやり方としてではなく、もっと根本的な、生まれてこの方日本語など一言も知らずに死んでゆくものたちの思考自体に寄り添うがゆえの、それをあらわすうえでの日本語の“不完全さ”として表現されているのです。
だからといって川瀬さんの文章は、の日本語を読み慣れている私(たち)にとってとっつきにくいものなどでは決してなくて、むしろとてもたおやかです。
 たとえば、四十代後半ぐらいの容貌をもち、町の人たちからは「年をとることをずっと昔に忘れ」たと称されているムルという名の物乞いの女性を、「何かよくわからない清らかなかたまりが、すいすい、ふわふわと漂ってきたとすれば、それはムルである」と川瀬さんは書きます。
 あるいは、エチオピアに住むユダヤ教徒で、イスラエルからゴンダールのストリートに舞い戻ってきたタスファイという名の老人については「漆黒のかたまりが、今日ものっそり、のっそりやってくる」と書きます。
 そうであるからこそ、この本に“ちりばめられている”アムハラ語は素敵で、隙あらば唱えてみたくなります。
シュルンシュルン。イェニ、イェニ、イェニ。ゼナブリプス。アムァムァキとアンカサッカサシによるイルルルル、インネブラ!(それにしても、VISAという「外国人女性」をあらわすスラングは、棘のような味がします)。
 私はいつしか、それがどんな旋律を奏でるものなのかほとんど想像がつかないまま、アムハラ語の響きに思いを馳せます。そう、アムハラ語、という言語がこの世に存在し、それをしゃべるひとたちがゴンダールのストリートで生きているという現実が、いま、自分が生きている現実とともにあるという、あたりまえといえばあたりまえの、途方もなく豊かな事実を思い知らされる最中の私は、書物をとおして世界――そう、それは今ここにいる「自分を規定するあらゆるもの」の外に果てしなく広がっている!――に触れているのです。
 もっといえば私は、アムハラ語が飛び交うストリートにときおり響く、カワセ、と呼ぶ声たちを想像するたびに、日本や日本語から遥か遠く離れたゴンダールのストリートが、川瀬さんと“出会った”ことは、日本語の読者である私(たち)にとってたいへん幸運なことだと感じ入りました。
 本書の舞台は、エチオピアに限りません。たとえば、イングランドで、ゴンダールの旧友・テグストゥと「再会」したカワセは、妻の親友であるベトナム人のジェシカから教わったフォーを彼女にごちそうします。ゴンダールでの日々をなつかしく語り合うふたりの言葉の中には、ジェシカの両親がそうであるように、テグストゥもまた、ボートに乗って海を渡り、命からがらの状態でそこにたどり着いた、という事実が、そっと、でも見逃しようもなく確かに織り込まれています。英国の片隅で交わされたアムハラ語とその内容を思うと胸が軋みます。しかし、これこそが「世界」なのだと突き付けられもするのです。いくら目を逸らしたくとも、私(たち)もまたこのようにひどくいびつな、持つ者と持たざる者の間にある格差が、持つ者の利権のために暴力的に押し広げられつつある「世界」の一員なのだと自覚しなければなりません。そのことを抜きに、希望を紡ぐことなど不可能なのです。
 その意味でも、『ストリートの精霊たち』が、今、日本語で書かれ、日本語で読めることは、私(たち)にとってこのうえなく幸運なことなのだとあらためて強調します。

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まなざしから生まれた語り/木村友祐

 受賞作『ストリートの精霊たち』の舞台は、エチオピア北部の都市、ゴンダール。その路上で寝起きする少年に二人称で「君は」と語りかけるものもあれば、音楽芸能をなりわいとする「アズマリ」の少年に寄り添う一人称的な三人称で書かれたものもある。さらには、エチオピア正教の十字架や、定宿としているホテルといったモノまでが、モノローグで語りだすものさえある。
 ゴンダールという、日本で暮らす者にはほとんどなじみのない街とその歴史、人々の全貌を伝えるためには、想像力も駆使してあらゆる角度から書く必要があったのだろう。でも、それは計算してそうなったというよりは、熱心にまなざしを注ぐうちに、いつしか自分がそれになりかわってしまった、というほうが近いかもしれない。
 このまなざしの距離感とたたずまいが、じつにいいのだ。現地のアムハラ語では精霊のことを「コレ」と呼ぶそうだが、その存在を今も身近に感じて暮らしている人々のことを、異質さを強調するのではなく、(自分たちと同じく)この地上で様々な事情を抱えながら生きる者として伝えている。そのまなざしが彼らと対等だと感じられるのは、研究者として現地に入りながらも、自分自身も所詮そのひとりだという認識があるからかもしれない。そして、そのような筆者のまなざしが注がれる対象は、おもに物乞いや物売りの子どもたち、アズマリの少年といった、人々からは嘲笑や哀れみの対象とされる路上の人々だ。
 バーの客に体を売るようになった女性の赤裸々な身の上話を書くときも、苦さをぐっと飲み込んで、告発でも過度な同情でもない、そのように生きざるをえなかったひとりの女性の物語として書く。一方で、ワシントンDCで出会ったゴンダール人の音楽家と寝食をともにしたあと、別れ際に有り金のすべてを渡そうとする音楽家と「いらないってば」「いや持っていくんだ」と延々と押し問答を繰り広げたりする(ぼくの郷里の人々のやりとりを思いだした)。
本書には、そうした喜怒哀楽が混じり合った、人間同士の心の交流が全編にあふれていて、ぼくは読んでいて何度も胸が熱くなり、揺さぶられた。エチオピアのゴンダールという、まったく知らなかった地で暮らす人々のことが、いつしか近所の身近な人々のように思えてきた。これこそまさに「外部」を「内部」に翻訳して伝える文学の力であり、鉄犬ヘテロトピア文学賞の精神を体現している作品だろう。読んだあとで心が豊かになるような、稀有な、すばらしい作品だった。

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選 評/姜 信子

 ほんとに驚いたんですよ、これはね、遠いエチオピアの、ゴンダールという名の遥かなストリートを行きかう「精霊」たちの物語のようであって、まったく私たちの物語じゃないか、そう思ったんです、それもね、私たちが随分前に失って、いままた取り戻そうとしている物語、いや、ただ物語とだけ言ってしまうと微妙に違うかも……、うん、そう、「声」なんですよ、「声」、それは今ここに生きる私たちが失った「声」(もしくは、奪われた「声」)であって、なんとカワセはその「声」をもって遥かなゴンダールのストリートから語りかけてくるのです、どうやらカワセは精霊の「馬」となっている、カワセの声は精霊たちの声になっている、カワセは複数の声であり、声そのものである、カワセが言うことには、「立ち止まり、自らの物語を語ろうと、こちらをじっとみつめて語りかけてくる者の姿がみえる。ある者は雄弁に、ある者はひそひそとささやく。その語り口のあり方や声のトーンもさまざまだ。目を閉じて、それらの声の主たちに、とりあえずすこし落ち着いて、と諭してみる。ストリートの多様な声は私自身のなかで交響し、どんどんふくらみ、あふれでてくる」、そうしてカワセからやってくる声を聴くうちに、じわじわ気づいていくわけです、カワセが言うところのストリートとは、つまりは、放たれては消えゆく「声」たちの〈場〉なのである、物乞いの声、たまご売りの声、放浪楽士の声、歌うのをやめてしまったならライ病になるという伝承を持つ吟遊詩人の声、声、声、それは動きつづけるモノたち、ひとところにとどまることのないモノたち、文字にはとどめきれないモノたちの「声」が形作る世界なのである、それをカワセは〈ストリート〉と呼び、私は〈場〉と呼ぶわけですが、思えば、「声」というのはたったひとりでは存在しえぬもので、本来すべての声は〈場〉の声としてこの世に孕まれ放たれるものであったはず、声を孕み、記憶を宿し、物語を分かち合う〈ストリート/場〉は、そもそもこの世に無数にあったはず、それはおそらく歌う者語る者旅する者生きている者の数だけあったはずで、それを君たちはすっかり忘れていたろう? と囁きかけるかのようなカワセの声は、すでに見事に〈場〉の声なのでした、カワセの声を聴く私は、かつて石牟礼道子が水俣病を病んだ者たちの声で『苦海浄土』を語りだしたときの、あの自他の境をおのずと越えた「声」のありようを想い起こしたものです、あれは近代以前の「声」の共同性を身をもって知る者だからこその「声」なのだ、と思う私は、同時に、近代の子たるわれらが近代的自我の呪縛から解き放たれた新たな共同性とそこに孕まれる声を持つことの困難を噛みしめる私でもあったのですが、それだけにあまりに自然にストリートの声で語りだしたカワセとの出会いは驚きであり、妬ましいほどの喜びであったのです、既に終わった近代のその先へと生きてゆきたい私たちにはストリートが必要です、場が必要です、声が必要です、聞けばどうやらカワセはひそかな蛇の化身らしい、蛇はこの世ともうひとつの世のつなぎ目を生きるものであるらしい、シュルンシュルン、目的などなく、ただ何とはなしに、人とのつながりをたしかめあい、人のぬくもりにふれ、夕暮れのなかを行きかう、カワセはそのような蛇でもあるらしい、シュルンシュルン、カワセの声を聴いた者は、その夜は蛇の夢を見るらしい、それをおのずと信じるわれらもまた、カワセとともにこの世の闇を渡る蛇となる、それぞれのストリートへとうごめきだす、これは実に愉快なことです、シュルンシュルン、ありがとうカワセ!

 というわけで、川瀬さん、受賞おめでとうございます。

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選 評/田中庸介

 どの国にも、遊行衆のような芸能の集団はあるもので、そこでは社会的な身分の低さと芸能的な魅力が表裏一体の関係にある。身を低くすることは、動物的というか人間的であることからできるだけ遠ざかることで社会化ないし文明化を果たしたヒトという動物が、それでも人間的であろうとする欲望にあらがえなくなった時にどうしても摂取せざるを得ない芸能というものの本質に直結している。でもそれを《アカデミズム》の枠組みの中で秩序だって説明しようとするのはおそらく極度に難しいことで、その論理なり審級なりを、山のぎりぎりの裾野をたどるように何とかもぎとって来ようとする営為として、川瀬さんの人類学はエチオピアの遊行の民《アズマリ》をめぐって展開することになる。「ストリートは人を、冷たく厳しく突き放す。突き放された者たちの体を夜露がぬらす。夜露は、彼らの心の奥底まで浸食し、やがて、彼らがかつて思い描いた夢の層にまで届く。するとその夢は凝固し、氷の花となって心の奥底に咲く。そもそもどこが都だというのであろうか」(95頁)。映像作家・ミュージシャンでもある著者は都市近郊のアズマリのムラに出入りしながら彼ら独自の言葉を操れるようになり、時には金をだまし取られたりしつつ、深くその考究を進めていく。さらにはエチオピアから移っていったアズマリを追って海を越え、米国、あるいはドイツで、彼らとの再会を果たす。本書は学問がアカデミズムの閾を越えて、妥協できない人間の本質へと裂開しはじめる瞬間をとらえたものであり、あるいは文学というものが心の奥底に咲く《氷の花》のきびしい低さへと重なりはじめる時間を共体験させてくれるものであり、つまりは最高にカッコイイ本なのだ。

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選 評/中村和恵

 歌と哲学、創作と研究、内省と観察、複数の声=文体、そして他我の魂、いくつもの境界上にこの一冊は揺らぎ、超えてはまた戻ってくる。考察や探求が創造性なきものであるかのように「クリエイティヴ・ライティング」から排除され、文学、といま呼ばれる領域が「小説」や「エッセイ」や「詩」と記されたそれぞれの袋に閉ざされたのは、古いことばの文化をいまに伝える各地の伝統に照らしてみれば、ごくごく最近のことにすぎない。道を読みひとの営為を語ることに駆られた者は、文学行為の本来の役目に立ち返ってくる。エチオピア・ゴンダールの混沌とした雑踏に音楽の魔法をかける芸能者たちの行いと、それはひとつに溶け合う。世界を読み、世界を物語り、世界を歌う行為。それこそが、世界をひとにとって「あらしめる」行為だ。
 越境しながら、つねに他者が意識されている。動きながら、浸透しながら、しかしつねに「かれらではない私」がいる。人波の中で川瀬慈はひとりだ。ヘ テロトピアという場を可能にするのは、そういうことだとわたしはおもう。かれらに「なりかわって」語ることはできない。しかしかれらに「ついて」語ることはできる。できなくてはならない。そしてかれらに「ついて」語ろうとすると、かれらが、乗り移ってくる。
 境界に立つ語り手は、孤独だ。だからこそ、語りかけ合える他者との関係がある。ひとりであることを、手放さないからこそ、交流が生じる。ことばは、こういう仕事のためにあるとわたしは信じている。心から共感する一冊に出会えた幸福に感謝。

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