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第7回 鉄犬ヘテロトピア文学賞発表

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【第7回受賞作】(著者五十音順)
◎小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMPQUAKES)
◎小林エリカ『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)
◎瀬尾夏美『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)

★第7回受賞作写真

 2014年からはじまり、当初の予定通り、2020年の今回でついに最後となる第7回鉄犬ヘテロトピア文学賞。その選考では、新型コロナウイルスの感染が収束しない状況を鑑み、集会は開かず、初めてメールでのやりとりとなりました。まずは選考委員それぞれが候補作についての所感を提示し、それを受けとめたうえで各自感じたことを答えるという経過をへて、いよいよ投票となりました。
 しかし、その投票において一度結果はでたのですが、その後にある議題が提示されたことで、選考委員それぞれがあらためて各候補作について検討し、自分の考えを述べ、それに対して応答するという掘り起こしが行われることとなりました(このときの各委員の立ち位置からの意見がすばらしく、大変意義深い応答となりました)。そのような議論を経たうえで、各作品について異なる意見が混在したまま、候補作の三作すべてを正賞受賞とするという結果が確定しました。
 人々のあらゆるちいさな営みや、土地それぞれの持つ歴史を巨大な力で均質化し、忘却させるものに対して〝文学的異議申し立て〟をする試みではじまったといえるこの文学賞のラストに、この三作を受賞作として迎えられたことは、とても幸いなことです。今夏に行われるはずだった東京オリンピックに代わって、新型コロナウイルスパニックによって震災の記憶がさらに遠くへ押しやられてしまった今、受賞作の三作ともが直接・間接的に東北にかかわる内容であったことは、必然だったのでしょうか。
 小野さん、小林さん、瀬尾さん、おめでとうございます。そして、私たちの想いを受けとめてくださり、ありがとうございます!

鉄犬ヘテロトピア文学賞事務局・木村

【追記】鉄犬ヘテロトピア文学賞のコーナーを設けてくださり、この6年間、ホームページ作成にもいつも快く応じてくださった、SUNNY BOY BOOKSの店主・髙橋和也さんにも、心から感謝申し上げます。

第7回選考委員(五十音順・敬称略)/井鯉こま、温又柔、川瀬慈、木村友祐、姜信子、下村作次郎、管啓次郎、田中庸介、中村和恵、山内明美

第1回受賞作と選評はこちら
第2回受賞作と選評はこちら
第3回受賞作と選評はこちら
第4回受賞作と選評はこちら
第5回受賞作と選評はこちら
第6回受賞作と選評はこちら

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【受賞の言葉】

小野和子

 「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の受賞作に選んでいただいて感謝いたします。
 あらためて賞の趣旨を読んで、思わず涙がにじんだのでした。そこには、「小さな場所、はずれた地点を根拠」とし、「場違いな人々に対するまなざし」を持ち、「日本語にかわりゆく声を与える意思」をもつ作品を拾い上げるとありました。
 これらの言葉の意図に近い営みを、わたしは誰に教わったというわけでなく、五十年あまり愚直にも重ねていたからです。それは、山の村や海辺の町を訪ねて、民話を語ってくださる人々を求めるという、いたって儚い旅であり、そこで名もなく生きる人々から学ぶもの多きに驚愕し、その人たちが語る言葉の力に圧倒される日々でした。
 その驚きを日記のように記していたものが、若い表現者たちの目にとまって一冊の本になりました。今回の受賞は、未来の表現者たちにも大きな力を与えるものになると思います。

小林エリカ

 東京オリンピック2020、その聖火リレーが福島県のJヴィレッジからスタートするはずだった3月26日。その日、私はJヴィレッジにいて、サッカー場の真緑の芝生の上に敷かれたブルーシートと使われることなく解体された聖火リレー舞台の残骸だけを見た。
 それから約5ヶ月。コロナによる東京都の緊急事態宣言は解除されたものの、娘の園がふたたびコロナのために休校になり、狭い家の中で私は仕事もままならないまま娘と鬱々としていたときのこと。『トリニティ、トリニティ、トリニティ』が、小野和子さん『あいたくて、ききたくて、旅にでる』、瀬尾夏美さん『あわいゆくころ 陸前高田震災後を生きる』とともに「鉄犬ヘテロトピア文学賞」受賞のお知らせをいただいた。とても嬉しい。

『トリニティ、トリニティ、トリニティ』は核、そしてオリンピック聖火の光の歴史の物語である。また同時に、私自身が産後、完全に無の状態になって(多分産後鬱)はじめて、生きるということを金銭に置き換えられる価値だけで判断しようとするこの社会(自分自身も含め)のことを書こうした作品でもある。
 要約すれば、光と金の話。

 2020年の今年、結局、聖火リレーは行われなかったし、オリンピックが開催されることもなかった。ギリシア、オリンピアから運ばれた聖火は「復興の火」と名づけられて福島駅前に飾られたけれど。
 7月24日、オリンピック開会式が開かれる予定だった日、私は光が消えたままの薄暗い新国立競技場のオリンピックスタジアムを見た。

 私は、光ではなくその向こうにある闇を、金ではなく生そのものを、見つけたい。
 はっきりいってそこには眩さも派手さも気持ちよさもないかもしれない。
 だから少しばかり不安にもなる。
 でも、いま、ここに、それでもこの作品に目を留めてくれる人がいる。その事実が、私にとっては重要な意味を持つし、大いなる希望でもある。
 だからこの受賞が心から嬉しいのです。
 本当にありがとうございます。

瀬尾夏美

 このたびは大変うれしい賞をいただき、ありがとうございます。以前から、いつか鉄犬仲間に入れてもらえるような仕事をしなければ! と思っておりましたが、本当にこのような日が来るとは……最終年の今年、敬愛するおふたりと並ばせていただいて、そして道なき道をずんずんと進みつづける選考委員のみなさんに選んでいただいて、とても光栄です。
「あわいゆくころ」は、津波に洗われた平らなまちあとで辛うじて聞いたことばたちと、つねに塗り替えられていく風景を記録し、誰かに手渡そうとする試みです。
 この本をめくっていると、荒野で行きあい、会話を交わした人たちの顔がいくつも浮かびます。しかし同時に、わたしはすでにたくさんの人たちのことを忘れてしまっている、という事実にも気づくのです。変わってしまった風景を目の当たりにすれば、以前の風景を思い出すことはもう困難です。忘れること、忘れられることに抗うために書き、記録をしながら、わたしはたくさんの細部を忘れていきます。だからこそ、この文章を読む誰もがきっと、異なる記憶や体験を持ち込み、ページに染み込んだ声を立ち上げ直してくれることを信じています。
 わたしの原動力は、誰かが抱えたままでいる、さみしさへの共感です。これからも、消えそうなもの、片隅に追いやられているもの、壊れかけているものたちの声を聞きにいき、それらを支える風景を眺め、書いていきたいと思います。

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【選 評】

管 啓次郎

 2014年に創設されて、今年が第7回。期間限定のプロジェクト型文学賞である「鉄犬ヘテロトピア文学賞」は、予定どおり2020年をもって最終回を迎えました。予定外だったのは、私たちが最初から時間的な区切りと考えていたオリンピックが、人間社会そのものを脅威にさらすCOVID-19により延期を余儀なくされたこと。しかしこの強いられた中断は、別に社会の構造や流れを変えたわけではありません。きわめて商業的な祭典のために都市のさまざまな歴史が一掃され、忘却へと追い込まれる。経済成長と利潤の追求、開発・再開発の波に洗われるうちに人々が記憶喪失を強いられ、小さな声、弱い声が沈黙に追いこまれるのは、世界のいたるところでつねに進行してきた事態です。そんな事態に対する批判的作品として構想されたのが高山明 /Port Bの「東京ヘテロトピア」(2013年〜)であり、そこから派生するかたちで生まれたプロジェクトがわれわれの賞でした。
 なぜそんな賞が必要だと感じたのか? われわれは全員が創作に携わっています。それぞれに作品の創作を試みつつ、自分は歴史を取り逃している、言語を見失っている、社会の見えない部分を見ていないという思いが、いつもどこかでつきまとっていたような気がします。書くことの前提にあるはずの、見ること、聞くこと、読むことに失敗している。その窮地から救ってくれるのは、他の誰かが書いた本だけ。世界を覆いつくすこの夕闇の中で、途方にくれるわれわれに別の道をしめしてくれるのは、われわれが知らなかった誰かがそっと書きつけた言葉だけ。そしてそんな言葉は、必ずある。思いがけないところから声をかけてくれる。そんな呼びかけに対する感謝、新しい視野を贈ってくれたことに対するお礼の気持ちを、ささやかながら表すのもいいのではないか。それはまた、それぞれにやり場のない無力感と孤独を感じながら、木の幹に傷を刻むようにしてその言葉を記してくれた先達に対する、連帯の意志表明にもなるでしょう。
 これはそんな賞です。われわれが選んだというより、本がわれわれの前に現れてくれたのです。作品に対しては、選ばせてくれてありがとう。作者に対しては、それを書いてくださってありがとう、と申し上げるしかありません。われわれの出会いを記念して、小さな燭台に火を灯しましょう。しばし語らい、あるいは無言で休み、ろうそくが燃えつきるときにはまた別れて、それぞれの道を行きましょう。
 そんなふうに存在したこの賞をしめくくるにあたって、この上ない3作に出会うことができました。小野和子さんの『あいたくてききたくて旅にでる』には、いつの時代どんな土地でも人の暮らしという流れの水面すれすれのところで見え隠れしている物語の石ころを、実際に手にとることの大切さを教えていただきました。瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ』には、土地にまるごと住みこみ、しばしば立ち止まりつつ、風景と人々の変化をじっと見つめる後ろ姿を見せていただきました。小林エリカさんの『トリニティ、トリニティ、トリニティ』には、20世紀世界を規定してきた放射能・ファシズム・オリンピックの絡み合いがいまも続くこと、われわれはそこから出てゆかなくてはならないことを、パルテノジェネシス(単性生殖)を思わせる女たちの系譜とともに果敢にフィクション化する、方法と文体における小説家の勇気をしめしていただきました。
 こうして今回の3作に学んだことを、これからどんな線につなげてゆくことができるのか。私たちにはまた大きな課題が与えられたようです。

井鯉こま

 鉄犬ヘテロトピア文学賞最終回。そうだ、こういう日本語もある、助かった、と思いました。なんせ、首根っこをつかまれ、為さなければ間違えない、間違えなければ正しい、とでもいうような、硬直しきった中央集権的日本語が、じぶんを連行しにきていたのです。思考の一路行進の末、ガス室にでも押しこまれそうな、窒息しそうな、2020年。中央の間違いを〈した圏〉の人と〈された圏〉の人がいるとき、どれほどうやむやにごまかしたって、問題は、〈した圏〉の人にあるのだけど、さて、〈した圏〉の人が問題を考え、行動を模索し、あらためようとするとき、それを阻む日本語とはなんだろう。追従、保身、怠慢、責任逃れ……頭が硬くなったそのとき、首根っこは、つかまれているのではない。自身の手で、自身とは異なる隣人の首を絞め、しまいには、自身の首を絞めることになってるんだって、気づく。そのまえに読む三冊。
 小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、とにもかくにも、民話にあいたくて、ききたくて、旅にでる。そんなご自身を《お話乞食》だという小野さんに、「あんた、おれの味方なのか、友だちなのか?」と気色ばむ明子さんは、線を引いて付きあおうとする友だちヅラの都会のやつらが、村に入りこんできて、「民話」をきいて、それを解釈したり、わかったような顔をする、と我慢ならない。乞食だなんて、おこがましいと。うんうんうん、と読者のじぶんもうなずく。《お話乞食》っていうより、お話の取りたて屋だよね、と調子にのって嫌味も足してみる。でも小野さんは、「調子よく『味方』という言葉を口にしないところに自分を置いて、そこからものを見ていきたい」と、「負けるだけの力がない」戦いに、そう突っ張る。それからふと、県南の宿場町で会った、「七つ前の子どもと畜生とホイドは神様だ」といったおじいさんからきいた、ホイドの話になる。ホイドに水を恵んで泊めたら、裏の山に清酒が出て清水になって、家には蚊が一匹も出なくなったんだよ、とおじいさんはいう。
 すると、酒や水を生みだして恩返しできない小野さんは、小さくなって、頭をさげるのだ。つづいて、読者のじぶんも、小さくなって、頭をさげるのだ。『あいたくて ききたくて 旅にでる』を読むことは、その思慮深さを、くりかえすこと。あって、きいて、自身を、変えていくということ。
 瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ』は、当時東京の美大生だった瀬尾さんが、震災後、陸前高田に住み、7年間の日々を記録してきた、複雑な被災地の声。「まちとひと」に慎重に向きあう思考の歩行の速度が、訥々と書かれる。このゆっくりさ。ていねいさ。もとのまちの跡をなくす「復興工事」がはじまった後半、にわかに逸るきもち。でも瀬尾さんは「風景」をとらえる、「うつくしさ」を手ばなさない、そのゆっくり、をやめない。うるさい工事に消えてしまいそうな、しんみりした声に耳をすまし、掬いとるために。少しずつ、繊細に、「まちとひと」の中から力をみいだす。死者。花壇。写真。りんごの実。蕎麦の花。おしゃべり。あめんぼ。愛嬌。かすれた言葉。黙とう。どれも小さく、よわく、やさしく、ささやかな、力。いくつも、いくつも。何度も、何度も、たしかめる。たしかに、それは力だ。そんな力がいるのだ。
 小林エリカさんの『トリニティ、トリニティ、トリニティ』。核という巨大な主題に対するなんという執念か!と、笑い喝采。 「目に見えざるもの」の中でも、最も強烈に具現化されているのは、作者の「執念」ではないか、とツッコンでしまいました。その執念ときたら、もはや生理の血みどろの中でのたうちまわるくらいしか能がない女たちの救い難さにも小林さんは匙を投げず、東京2020の残骸めいた首都文体で、走らせる走らせる。あな恐ろし。などといってる場合でない。みっともなくもがき走るべき者は、ここにいるのだ。エエーッ?じぶんも〈首都圏〉の女だったっけ?と、すっとぼけたいところを、主人公のすがりつく「サイバーセックス」にまで追いこまれ、怒りと哀しみを突きつけられる。じぶんたちの、この性と、ふかぶかと関係する、「目に見えざるものたち」の連綿と負わされてきた怒りと哀しみを。突きつけられる。
 そんなわけで、中央路線からは調子っぱずれで、多元的な日本語が、まだまだあるのだと、助けられました。じぶんも、〈正しい〉かどうかおぼつかなくとも、為すべきことを為さねばと、今日も日本語で考えあがくことができます。お三方に感謝、ありがとうございます! 想いをよせることばにかえて、心から、受賞おめでとうございます!

温 又柔

 オリンピックがあったはずの、厄災に見舞われた2020年。鉄犬ヘテロトピア文学賞はやはり幸運な賞だと思わせてくださる3冊の本と出会えました。

 まずは、瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』(晶文社)。
 「歩行録」として記された日付の一つ一つに、刻一刻、流れゆく時間の中で全身を澄ます瀬尾さんの息遣いが感じられます。やさしいたおやかな言葉遣いながら、文字を辿るうちに、自分が東京で重ねてきた7年間と、時の流れや、資本の動きが覆い隠そうとするものが露わになり、そのせいで自分自身が剥き出しにされてゆく感じがありました。日付の間に挿入された「あと語り」も、とても沁みいります。
 さみしさ、うつくしさ、距離、弔い、風景、旅。そして継承についての瀬尾さんのことばは、かのじょ自身が書くように「身体の芯に響く」ものへの真摯な応答です。冒頭の「みぎわの箱庭」をはじめ、言葉のみならず、絵のアーティストでもある瀬尾さんの絵にこもったやさしい力にも心洗われました。
 わたしたちのこの賞が、瀬尾さんのこの本を求めていたと確信しています。

 次は、小林エリカさんの『トリニティ、トリニティ、トリニティ』(集英社)。
 扱われる時間軸の幅と、「わたし」という、どちらといえば、ありふれた「ふつう」の女性である一人の人間の生理を細やかに見つめる誠実さを両立させた、この作者ならではの類稀な視点で描かれた、ほかにない「オリンピック小説」だと思います。新型コロナウィルスの流行で、2020年という年に開催されるはずだった東京オリンピックが幻となった今、この本の中に流れる「2020年」は、ひとつのパラレルワールドとして、「光とは誰のものか?」「光を占有するものとは何者か?」と読者に訴えかけるものがあるように思います。また、この本は、現代美術のアーティストでもある著者による展示(https://obikake.com/column/4165/)あってこそ、より輝くことも付け加えておきます。

 そして、小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMPQUAKES)。
 まずもってこの装丁のうつくしさに息を呑みました。その頁を一枚、また一枚と追ううちに、この日本の主流とは異なる、けれども確実にずっと存在してきたはずのものの気配たちに「あいたくて ききたくて」綴られる小野さんのことばに魅了されました。うつくしい装幀に似つかわしい、その試みにふたたび溜息がこぼれました。

川瀬 慈

『あいたくて ききたくて 旅にでる』小野和子

 民話は生命を持ち、人と人のつながりのなかに創発的にたちあらわれていく。本書を読み始めてすぐに、民話の「内なる生」とでもいうべきものの脈動を感じた。民話は、時空をこえて、語り手に語られることを通して、その輪郭を拡張させ、最終形態を拒み、我々の心を、存在を揺さぶり続ける。著者、小野さんの声は民話の声たちと相互に貫入しあう。本書は、小野さんと様々な声たちが相互貫入する地平からこそ立ち上がる稀有な文学だ。

“民話を語ってもらうとき、わたしはいつもその人の背後に、それを語った先祖の面影を見るし、その声を聞く。わたしのところまで、いま、語り手を通してきてくれている「物語」は、語る人の「単声」としては聞こえてこない。時代を経た無数の先祖の声であり、それは共同体とでもいうべきものの複数の声として聞こえるのである。”(P261)

 民話の声の性質をここまで見事にとらえたことばがあるだろうか。「共同体とでもいうべきものの複数の声」によりそい、それらを深くまなざし、傾聴する小野さん。おそらく、小野さんは、お話をすくいとる器であろうとされているのではないだろうか。本書は、器ですくっても、すくっても、またあふれ出てくる話のとりとめのなさ、うまくすくったとみえても変奏してしまうお話の躍動、器からとりこぼされてしまう物語の悲哀をも伝える。本書はまた、器であることの難しさやその器のかたちそのものを疑い、器にできた亀裂をたちどまってじっと見つめる小野さんの省察、いや、揺れ、ぶれ、やるせなさも見せる。

 あいたくてききたくて旅に出たのは、民話を乞うて歩いた小野さんだけではない。実は、この本のなかにおさめられた民話たちこそが、我々に会いたくて、小野さんという器に乗せられ、ゆられ、ゆられながら、はるばるこちらへやってきたのだ。

木村友祐

 小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、宮城県内の村を訪れて民話を聴かせてもらうという、五十年もの歳月をかけた営みから滴り落ちたエッセイ集。民話と民話を語る者の心の奥にあるものを照らしだし、大切な気づきを与える言葉がいくつもある。読まれるべきすごい本だと思った。
 どのエピソードも心に染み入り、揺さぶり、考えさせる。記録からこぼれてしまった東北の先住者「エゾ/エミシ」に向けた民衆の思いを探る「エゾと呼ばれた人たち」や、夫から聴いた話をまとめた「ゆめのゆめのサーカス」など、ふいに号泣しそうになる瞬間がある。とりわけぼくには、動物とのかかわりの濃さを示す話が胸に迫った。「大事な大事なおれの両腕(もろうで)だった」犬のカロや、「忘れられねぇ、馬(ま)ッコ」だった黒馬のクロカゲのことを偲んで泣く女たちとともに、ぼくの心もむせぶ。
 「民話」と聞いて思い浮かべる、定型的な昔話だけが民話なのではなかった。〝民の話〟なのだから、村の暮らしのなかの忘れがたい出来事の語りもまた民話なのだった。さらに、出兵した者たちにまつわる語りもまた、民話となる。動物、女たち、戦争。その民話の背景には、逃れることのできない時代の影と、切れば血が噴きでるような人々の思いが横たわる。そしてじつは、定型と思われている民話にもそれは刻まれているのだった。
「無名」の村人たち一人ひとりの心に近づこうとする本書から顔を上げれば、その隠された心の悶えは、ほんとうは今を生きるぼくら一人ひとりも抱えているはずだ。小野さんのように聴き取る耳を持つ者がふいに現れれば、そこからまた、現代の新たな民話が生まれるだろうか。

 小林エリカさんの『トリニティ、トリニティ、トリニティ』は、原子力とオリンピックという、別々のもののようでいて根底ではつながっている、つまり民衆を犠牲にしてまでも押し進める国家事業の内実を絵巻物のように浮き彫りにした野心作。戦争という国家事業とも結びつくそれらの巨大な主題に、小説というフィクションを武器にして真っ向から挑んでいく。
 読みながら、延期にならなかったオリンピックという、もう一つの現実を見ているような不思議な感覚におちいる。そして、原子力に関する圧倒的な知見にもとづく物語構成に感嘆する。
 精緻なパズルを組み立てるような物語に登場人物の魅力が吸い取られている印象はあるものの、原発事故から九年が過ぎても、この巨大すぎる難しい題材にぼくを含めてほとんどの書き手は手がつけられなかった。そんななか、国ぐるみで震災を忘却させるオリンピックが目論まれた2020年という忌まわしき記念の年を射程にして、鋭く一矢を報いようとした果敢さに賛辞を送りたい。

 瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ』は、ツイッターに書いた七年間ものつぶやきをまとめた異色の本だ。東日本大震災のボランティアをきっかけに、東京生まれの瀬尾さんは岩手県陸前高田市に移住し、復興が進む様子に内側から寄り添う。「よそもの」であることの立場を謙虚に意識しつつ、よそものだからこそ光をあてることができるだろう何かを探していく。
 驚くべきは、とにかくそっと寄り添う姿勢を保ちつづけていること。復興の過程にいるという「繋ぎ目」の時間と、街の人々の様々な心模様を見つめつづける。その静謐な筆致はまるで、復興のかたちに対して〝評価を下さない〟ことを厳しく自らに課しているかのようだ(すぐに外から評価を下そうとしてしまうぼくの姿勢を反省させられる)。
 淡々としながら様々な色合いの日々の気づきが綴られていくのだが、それでも、震災から三年が経過して復興工事が本格化していくと、かつての街の痕跡が残っていた場所さえも剝ぎ取られ、盛り土で埋められていくことに、見つめることに徹したその心も乱れていく。街の人たちのうめきも伝わり、それを読むこちらの心もざわついてくる。
 それでも瀬尾さんは、踏みとどまるように、〝仮設〟のなかにも〝ほんとう〟があるはずだとつぶやく。その地で働き、街の人となって寄り添いながらも、半分はよそもののままであるからこその大切な気づき。ただ、五年が経過しても、なお街の人からうめきは消えることがない。瀬尾さんは、まだ街のかたちが現れない土地にも人々の暮らしがたしかに生まれることを予見し、肯定しつつ、そのような街の人々の声との狭間に居つづける。
 この本を読むまでは知らなかった、震災と復興の内実にふれた思い。このような震災の記録はほかにあるだろうか。

「さあ、逆襲のはじまりですよ」/姜 信子

 小野和子さん、瀬尾夏美さん、小林エリカさん、受賞おめでとうございます。
 鉄犬ヘテロトピアの仲間になってくださり、ありがとうございます。

 今回の受賞作3作について、私にとっての共通項を一つ上げるならば、それは私たちの記憶を盗んだり、消したり、書き替えたりする者たちへの「テロ」だということ。
 そして、「テロ」にもいろいろあるわけで、三者三様。

『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、「場」を開く作品でした。
 近代以降、この国では、無数の小さな語りの「場」が無数の神々とともに消されて閉じられてきました。その流れのなかで「場」を開くことは、それ自体が抗いです。
 しかも、『あいたくて……』は「場」を増殖させてゆく書物/蠢きでもある。その「場」に出会って、集って、つながって、いかにしてそのような「場」は開かれるのか、増殖するのか、ということを身をもって経験した者たちが、またさらに蠢きだす、(そのなかの若い蠢きの一つが瀬尾さんであり、『あわいゆくころ』でもあります)、この増殖してゆく豊かで不穏な「蠢き」が、とても素敵で、不敵。

 そもそもは東北の仙台で、たったひとりでひそかにはじまった「蠢き」です。
 石牟礼道子さんの言葉を借りるならば、小野和子というひとりの「悶え神さん」がいた。小さな声を訪ねて、聞いては身悶え、身悶えてはまた聞きにいき、そうしてただただ歩きつづけた者が、たくまずして拓いていった「語り」の道があり、「蠢き」の道があった。
 聞くこと、歩くことは、生きることであり、生かされることであり、生かされ合うことだったから、ひたすら聞いて、ひたすら歩いた。
 思うに、小野和子という人は、いまだ外に向かって語られることなかった、ただひっそりと人々のうちに宿されていた物語の「蠢き」に憑かれた、一個の「旅する耳」なのでしょう。
「旅する耳」は、つつましく差し出されたその耳に向かって人々がおずおずと小さな声で語りだす物語をそのまま、その息遣いまで、そのうちに宿る命の記憶まで、大切に書き留めます。
 それは、たとえば、人間の娘が蛇の子を産んだり、蛇が人間の子を産んだり、蛇が大いびきをかいて昼寝していたり、猫が浄瑠璃を語ったり、というような物語だったり、ほぼ同じ物語なのだけれども語る人によってさまざまに変容する物語であったり、まるで初めて聞く物語だったりするのだけれど、そのすべてが「みんなみんな、ほんとうのこと」。本当に、ほんとうのことなのです。誰かが「正史」や「正しい記憶」を決めるのが常の「正しい世界」では、見えざる聞こえざる領域に押しやられていくほかない無数の「ほんとうのこと」を「耳」は聞きだすのです。
「ほんとうのこと」が語りだされたなら、「正しい世界」はゆらゆら揺らぎだすほかはないものです。だから、「ほんとうのこと」の蠢きに引き寄せられて、蠢きの中から物語る声を引き出して、物語の場を開いてしまう「旅する耳」は、まことに不穏このうえない。
 こうして書きながらも、すでに私は、『あいたくて ききたくて 旅にでる』のことではなく、『あいたくて ききたくて 旅にでる』に出会ったことで私の中で膨らんだ物語を語っているような気がしなくもありません。すでに私も蠢きと増殖に巻き込まれているのかもしれません。(たぶん、そのせいで、私は小野作品について無闇に語りすぎているのでしょう)。

『あわいゆくころ』の瀬尾夏美さんもまた一個の「旅する耳」でした。
 震災の被災地へと向かい、被災地で暮らしはじめる、その日々の記録は、だんだんと「ほんとうのこと」に耳が開かれていく過程であり、その「耳」は小野和子さんとの出会いをとおして、みずからが聴き取った「ほんとうのこと」を訥々と語りだすきっかけと力を得たようでもありました。瀬尾夏美さんの出会う―聴くー呟く―出会うー聴く―呟く―出会うー聴くー呟く……、という愚直なまでの日々の営みは、震災から復興へとうつろう時の流れの中で、あるいは、日常と非日常のあわい、生と死のあわいの中で、人と人がつながりなおし、生きなおしてゆく物語の場を生みだしてゆく。そうやって声を聴いては日々生まれ変わってゆく若い「耳」の力は、ひそかに静かに蠢く声たちの希望です。

 そして、『トリニティ、トリニティ、トリニティ』。きっぱりと告げられる闘いの意思。闘いの物語。そして、帯にもあったこの言葉。
「もしも目に見えざるものを、その怒りや哀しみを、目に見える形で表現することをテロと呼ぶならば、これはわたくしのテロとなるでしょう。これが、目に見えざるものたちの、逆襲の皮切りとならんことを」。
 小林エリカさんのこの言葉は、私たちの「テロ」の合言葉です。
 ここに、わたしたちのテロのはじまりの秘密もあります。
 闘い方は、闘う者の数だけ。
 テロはひそかに、あるいははっきりと、さまざまに、いたるところで。

 そうして、気がついたときには、取り返しのつかないくらいに、あっちこっちで無数のほんとうの物語の蠢く「場」が増殖しているのが理想的。
 あっちこっちで蠢きだしたものが、たくまず、おのずと、炸裂したり、つながっていったりすれば、なお素敵。
 思うに、鉄犬ヘテロトピア文学賞最終回がこの三作となったことも、不穏な私たちのテロの一環なのでありましょう。
 さあ、逆襲のはじまりですよ。

下村作次郎

 小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅にでる』を推す。本書は、「山の村や海辺の町を歩いて、民話を求める旅を続けてきました。五十年になります」とあるが、その民話の「採集」「採話」の方法が、著者が名づける「採訪」という独自の方法で行われている。ここに本書の文学作品としての作者の創造性と文学性があると言える。しかし、そうは言っても、この創造性と文学性の間には極度の緊張感が必要であり、と同時に、その緊張感は一瞬たりともゆるんではならない。「採訪」した「民話」が採訪者のつくりものになってはならないからだ。本書には、こうして蒐集された「再話」作品が、「本書再話作品一覧」によると35編収められているが、作者によって語られた民話「採訪」の世界は本賞受賞に値する文学作品となっている。
 以下は、個人的なことだが、私は台湾の原住民文学の翻訳に従事している。作品の舞台には必ず出かけるように心がけている。その土地に行き、その土地の人たちの話を聞いたり、描かれた人物と話しをしたりしてみたい。これまで聞こえてこなかった人々の肉声に耳を傾けたいと思う。翻訳にどれほどの影響があるのか不明だが、やはり出かけたい。作品の舞台で、案内してくれた作家の息遣いを感じ、作家が描いた場所や風景を目にし、その場を取りまく空気を吸いたい。自己満足かもしれないが、訳者として心がけていることのひとつである。
 小野さんの作品を作者の息遣いを感じながら読んだ。どの話も引き込まれるものがあったが、とりわけ衝撃的だったのは、第七話の「エゾと呼ばれた人たち」だ。ここには、日本史の読み直しを迫る民族問題、すなわちエスニックマイノリティの問題が提示されている。果して坂上田村麻呂は英雄か。本書には民話を通じて知り合ったという佐々木みはるさんが祖父から父へ、そしてご本人へと語り継がれた坂上田村麻呂の話が記録されている。作者の民話「採訪」は、民衆が民話にのせて語り継ごうとする真実の声をすくいあげようとする姿勢に貫かれている。

フレッシュな粘り強さ/田中庸介

 小林エリカ『トリニティ、トリニティ、トリニティ』は、認知症・放射能汚染・セックスサイトという現代を象徴する三つの闇を取り上げた創作。放射能とセックスが同じようなネガティブなアディクションの対象になりうるという気づきは非常に鋭い。トリニティの相手の正体が最後に明らかとなるところには少し不自然さがあるが、とても興味深く読みました。
 小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、東北の民話採集者の中心的な存在である著者の生涯の軌跡を、豊富な原資料を交えて語ったエッセイで、最も期待をもって読ませてもらった。都会の生活でわれわれがともすると忘れがちな、崖から突き落とされるような気持にさせられるあの農村の苛烈さに届いている。そして、「むがし」と呼ばれる民話を採集者に対して語ることそのものが救済をもたらすという発見に、最終的なカタルシスが見いだされる。編集も素晴らしく、この分野のみならず、人文社会科学の後進にとって、かけがえのない教科書となるべき大著でしょう。
 瀬尾夏美『あわいゆくころ 陸前高田、震災後を生きる』は、アーティストとして震災後の陸前高田に短期的に移住した著者の五年分のツイートをていねいにまとめた本である。津波にすべて洗い去られた土地は、さらにかさ上げ工事によって昔からのメルクマールとなっていた大岩が埋没するなど二度目の風景の喪失を経験するが、その迷い、いらだたしさ、そして希望を、特に二年目以降の文章は、さらさらとよどみなく語りつづける。トラウマティックな記憶や経験をともすると抑圧しようとするわれわれの心のはたらきに、著者は「うつくしいもの」を求めようとする驚嘆すべき精神の粘り強さであらがい、続いていく時間性の側に立って戦っている。
 これまで本賞の選考にかかわらせてもらって、現代の人文社会科学ないしは文芸創作というものが、現在進行形で展開される事象にどのような角度で介入するのかという観測問題において多くの気づきがあった。構造主義を超える世界文学などという以前に、主体は客体に、客体は主体にほかならず、「そうやって、なんとかかんとか語り継ぐのさ。ひとりの経験はひとりの問題でねくて、過去の人と、未来の人のものでもあるんだよ。この世を生きてるっづごどは、そういうごどなのさ。ひとりじゃねんだよ。」(瀬尾作品p.295)ということ。このように過去へ未来へと連帯する表現へのナイーブな希望をてらいなく述べた瀬尾作品のフレッシュな粘り強さを、わたしは三作のうちで最も《新しいもの》として応援したく、特に個人的に感ずるところがありました。

中村和恵

 小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』に、自分がやってきたことと近いこと、遠いこと、いずれにせよ響き合うことをいくつか感じました。なので今回はこの本について選評を書かせてください。
 民俗学、さらには(じつは、というべきか)文化人類学と、民話/神話/自伝/なんにしろ語り手の名を記すと同時にその語り手の方の後ろにある無数の声を「聞かさる」(おもわず、自然に聞いてしまう)物語と、それらの物語を聞き歩く一人称の語りの交差点に、生じたこの本は、いろんな意味でのヘテロトピアに存在していると感じます。これを宮城県、東北、日本の民話の系譜から説明したり味わうことも可能ですが、わたしはこれまで読みかじり聞きかじってきた、オーストラリア先住民の、すぐさま意味はわかりにくい不思議な物語のことを想起します。わたしの場合は意図的に集めたのではなく、そこにぶらぶらしていて、聞いたり、教えてもらっただけですが、でも通じるものははっきりあると感じます。
 不思議な話、意味のとりにくい話。でもそこには、かならず根が生えている。その場所とその場所に生きていた人々の土壌に深く、根を下ろしている。お話は、そこから生えるきのこ、草、木、人により年によりすこしづつ姿は変えるけれど、ずっと変わらぬなにかを芯に伝えている。
 いわゆる民話とは数えられないこともあるだろう、実際に経験したお話の語り、蛇から生まれた子の話や、戦地でばあちゃんがつくってくれた大福餅を食べて元気になって生き延びた話、みんなほんとうの話だ、という受け止め方に、心から共感できるのも、この本の語り方の妙味なのだとおもいます。「祖先からわたしたちが受け継いでいる民話の一つひとつだって、もしかしたら、のっぴきならない現実に追い込まれたときに、そこを切り抜けていくために生み出された「あり得ない」物語の群れなのではないか」という説明、それが「もうひとつの世界」の真実なのだという解釈は、この世とは生物にとってほぼ絶え間なくのっぴきならない現実なのだ、という実感を持ついまのわたしにとって、それ以外にはない説明のように思われます。オオカミのまつ毛の話が、授業に出られない生徒を救う物語になったのは、まさにそうであるべき姿でそうであるべきかたちで、語られた物語の仕事であったのだと。
 ひろい意味の文学というのは、そういう仕事をするものなのだと思います。
 地域の読書会で、全体の流れに掉さすようなことばを出したKさんに明確な説明を求める声の前に、黙ってしまった著者とKさんが、のちのやりとりでほんとうはなにがいいたかったのか、やりとりがあった場面に、わたしは個人的にとてもありがたく感じました。いつも、つねに、こういうことの繰り返しだという気がします、人生は。ほんとうの話は、親和力のある場でなくてはいえなくて、黙って胸のうちにしまいこんでしまいます。小野和子さんはそういう方々のところにいって、まれな話を聞きだす場をつくったのでしょう。
 字の読めないおばあさん。部屋の隅に布団と七輪を置いて死ぬまでひとりきちんと暮らすおばあさん。なにも話せなくて、と申し訳なさそうにいったあと、いきなり話をしだすおじいさん。そういう方々にお話を聞く小野さんが、自分をお話乞食だと呼ぶ、その距離の置き方に、「都会のやつら」の感覚を感じて怒る語り手もいる。旅の者には表向きの話を語り、ほんとうの話はどうやら隠していたのではと考えられるような報告を受けることもある。東北の先住民族と中央の人間を、中央からの視線のみでうっかりした説明をしてしまった文章から生じた、歯切れのわるい議論に著者がつきつける疑問もある。センチメンタルな自分の解釈を反省するようなくだりも。じつはやわらかいだけの語りではない、苦労を負ってきた北の生活者が抱く激しい思いと、ぶつかることを恐れない問いかけとがんばりが、この本の骨子をなしているのだと思います。それをどうとらえるか、意見はさまざまにありそうです。読むにつれいろいろいいたいことが生じてくる本でした。そしてここに記された声との出会いを尊くありがたく思います。

山内明美

 瀬尾夏美さんの『あわいゆくころ』は、大変ゆるやかに、東日本大震災以後の「あわい」の記憶を留めています。原発事故以後、何かを断定的に語ることがより一層難しくなりました。どんな判断も正しいとか間違っているとかいうことができない、けれども、この困難を乗り越えるには、それなりの知恵と信念が必要です。こちら側を油断させるような「ゆるい」文体ですが、あの甚大災害の中で〈よそ者/若者〉が被災地と関わり合ってゆく中で止むにやまれず生み出された書き方なのだと思います。
 丸っこい天使の絵も文体もデジャブだろうかと思っていたのですが、ふと、デジャブだと思っていたそれは、ジャン・コクトーの『ポトマック』でした。

 小林エリカさんの『トリニティ、トリニティ、トリニティ』は、オリンピックを背景としているのに、まるでCOVID-19の世界のような顛末と二重写しになっているかのようでした。原発事故を背景とする出来事や核をめぐる被爆のこと、そしてCOVID-19やオリンピックも、この近代世界の根っこでつながっている。とりわけ、この国の「戦後」という時間幅の越し方行く末について思うとき、母娘をめぐる家族を背景とすること、核をめぐるアメリカと日本のこと、そして現実的には宙吊りとなったままの〈オリンピック〉がますます奇妙に読めてきます。また一方、依然としてオリンピックと原発というテーマ設定の難しさも考えさせられました。

 小野和子さんの『あいたくて ききたくて 旅にでる』は、小野さんの昔語りの採訪の記憶を辿っています。まだ辛うじて〈生業世界〉が偏在していたころの昔語りは、同時に、戦後75年のこの時間の中で喪失されていった〈世界/物語〉でもあるでしょう。こうした〈世界〉は、東日本大震災の後でさらに加速的に消滅していく危機を思います。もうすでに生まれたころには〈世界/物語〉が無かった若者たちと一緒に綴られた、大事な1冊だと思います。

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