フロム・ファースト・センテンス 2 issue2
2019.06.19
阿部海太 / 絵描き、絵本描き。 1986年生まれ。 本のインディペンデント・レーベル「Kite」所属。 著書に『みち』(リトルモア 2016年刊)、『みずのこどもたち』(佼成出版社 2017年刊)、『めざめる』(あかね書房 2017年刊)、共著に『はじまりが見える 世界の神話』(創元社 2018年刊)。 本の書き出しだけを読み、そこから見える景色を描く「フロム・ファースト・センテンス2」を連載中。 kaita-abe.com / kitebooks.info
ファースト・センテンス /
「いかめしさを演ずる男のダンサーたち。お互いに列になってつながりあう、きらびやかな無名の演技者たち。」
80年代後半に撮影された記録映画。
奄美大島の小さな村で行われた豊年祭の様子が映っている。
村の男たち、女たち、お年寄り、子供、
皆がそれぞれの役を担い、手慣れた様子で神事は進む。
神官、楽器奏者、役者、歌い手、
古くから家々に伝わる役職を淡々と遂行する彼らを眺めながら、
「選択肢のある幸せ」と「役割の用意された幸せ」について、
この個人主義の時代にひとりぼんやりと考える。
やがて陽が落ちると演目はゆるやかにほどける。
人々は立ったまま酒を酌み交わし、手を振りながらくるくると回る、回る。
重なる声。加速する太鼓のリズム。
互いにくっついたり離れたりを繰り返す赤ら顔の村人たちは、
みな輪郭を曖昧にさせながらひとつの塊になってゆく。
「無名の演技者たち」は互いに手を取り合いながら、更に空間や時間までも繋いでいく。
ここはそこでもあそこでもある。今は昔でも未来でもある。
本当の「無名」にはそれほどの力がある。
踊ることの感触について、
きっとその上澄み程度しか僕は味わったことがないのだろう。
音楽が鳴れば好きに体を動かすことだってできるし、
見よう見真似で盆踊りを楽しむことだってできる。
だたそんなものとは違う、土地の記憶に体を委ねるような身体経験。
それを僕は持たないし、これからも持つことができないだろう。
それは習得したり、はたまたゼロから創作したりできるものではない。
「無名の演技者たち」はいつだって日常から生まれ、日常に帰ってゆく。
彼らの背中にはいつも先祖の眼差しがあり、やがて彼らも子らの背中を見守る日がやって来る。
連綿と続く流れを前にして、僕は自分が宙吊りにされたような心持ちになる。
この書き出しのダンサーたちは、いったいどんな日常から生まれ、どんな日常に帰ってゆくのだろう。
夏の蒸した夜に(「きらびやか」という言葉はどこか熱と湿気を想起させる)、
名を持たず、踊りそのものになって物語から消えていく男たち。
そんな彼らに密かに憧れる表現者としての自分がいる。
名前なんて放ってしまえ。
表現なんてやめてしまえ。
ただ踊れ、歌え。
そう突き動かすのは、
たぶん役割なんて言葉では表すことのできない何か。