絵描きからの片道書簡 三通目 「あこがれの芸術」
2014.12.27
阿部海太 / 絵描き、絵本描き。 1986年生まれ。 本のインディペンデント・レーベル「Kite」所属。 著書に『みち』(リトルモア 2016年刊)、『みずのこどもたち』(佼成出版社 2017年刊)、『めざめる』(あかね書房 2017年刊)、共著に『はじまりが見える 世界の神話』(創元社 2018年刊)。 本の書き出しだけを読み、そこから見える景色を描く「フロム・ファースト・センテンス2」を連載中。 kaita-abe.com / kitebooks.info
前回の二通目にて、絵本「みち」を描いた経緯を書きました。
長い長い一本道を歩き続ける男の子と女の子。
二人が絵本の中で出会う景色は、僕自身が魅せられた旅の空と見知らぬ荒野がもとになっています。
中南米での旅の経験は僕に「みち」を描く「きっかけ」を与えてくれました。
でもきっかけはあくまできっかけで、それは瞬間的な働きでしかありません。
「きっかけ」が引いた引き金は3年という歳月をかけて一本の「みち」を描いたわけですが、実際にその3年の間、「みち」を遠くへ遠くへ伸ばし続けたのは、旅によって植え付けられた遠い場所への「あこがれ」でした。
一度目にしたときから、異国の荒野はイメージのこだまとなって、旅から戻った生活の隙間に繰り返し繰り返し表れました。
東京の空に浮かぶ雲を見て、地球の反対側に浮かぶ少し形の違った雲たちのことを思い、乗り馴れたバスの座席に腰掛けながら、終点を降り過ごした先に待っている(気がする)知らない町へと続くハイウェイを想像しました。
旅のようにはいかない現実から逃げれるため、そして鳴り止まないこだまに答えるため、帰って来てまもない時期は本当に良く海外文学を読みました。
特にお気に入りはアメリカ文学でした。
あるとき、ひょんなことから手にしたヘミングウェイの文庫本。まだ南米を彷徨っていたとき、ボリビアの安宿でベッドに寝転がりながら読み耽っていたときのこと。初めて読んだヘミングウェイのマッチョぶりに辟易した後で、その本の最後に添えられたある印象的な解説文に出会ったのが始まりでした。
解説文には西洋文学とアメリカ文学の違いについての考察が書かれていました。
記憶をたどってその差異を要約すると、脈々と受け継がれて積み重ねられた歴史を有する西洋の文学は、時間を軸に書かれた「縦軸の文学」、他方西洋から渡った移民たちが、広い土地の上で一から始めた文明の中で書かれたアメリカの文学は、空間的広がりを軸にした「横軸の文学」と捉えることができるという内容だったかと思います。この解説文を読んだあと、読み終えたばかりのヘミングウェイの文章が、自分の頭の中で風が吹くように息を吹き返していくのがわかりました。
帰国後、東京の狭い空の下、空間的な広がりを求めてアメリカ文学を読み漁りました。
全ては遠いところへの「あこがれ」と、「なんでこんなところにいるんだろう」というフラストレーションが僕を読書に向かわせました。
でも、いつもいつも思うことですが、本当に行きたいなら行けば良いし、本当に帰りたくないなら帰らなければ良いのです。
何で旅立たないんだろう。何で帰って来てしまったんだろう。1冊読み終えるたびに、こだまが強くなっている気がしてなりませんでした。
当時、アメリカ文学を読むのと平行していくつかの紀行文学を読んでいました。
特に好んで読んだのはブルース・チャトウィンというイギリス人の作家で、彼が書いた「パタゴニア」という本は、美術鑑定士の職を辞した彼が、南米パタゴニアの地で祖母のいとこの消息を探す旅路を綴った作品です。彼が照らし出すのは辺境の地に住む人々の暮らし。作家は目となり耳となり、その地の光と影を静謐な文章で記しました。この最初の旅を契機に、彼は絵画や彫刻の世界へ帰ること無く、頬に風を感じることのできる場所でその後の短い生涯を終えたそうです。チャトウィンは旅人になった作家ではなく、作家になった旅人でした。歩みを止められない魂を持ち、それに翻弄されながらも生かされていたんだと、彼の遺した文章が語っています。
帰ることの無かったチャトウィンと対照的なのは、アメリカ文学の異端児でビート・ジェネレーションの代表的な作家であるジャック・ケルアックです。
ケルアックは著書「路上」において、広いアメリカの大地の端から端までを右往左往する若者たちを描きました。彼らは鉄砲弾さながらに早く、激しく、車をぶっとばしながらヘミングウェイの解説文にあった”空間的な広がり”を享受するわけですが、ここでの作家の視線はその風景ではなく、あくまでアクセルを踏みつけ絶叫する若者たちに向けられます。主人公のサル・パラダイスと相棒のディーン・モリアーティ。内気なサルに対して火薬玉のようなディーンは、そのまま著者とその友人がモデルだったそうです。ディーンは散々サルを振り回した後、最後は置き去りにして遥かメキシコの闇に消えてゆくのですが、実際にケルアック自身も、ビートの父と祭り上げられたことで生じたギャップから、時代の影で孤独な晩年を過ごすことになります。
行ったっきりの人と、置き去りにされた人。
行ったきりの人は行った先で目にした人々の暮らしについて書き、置き去りにされた人は行ってしまった友人のことを書きました。
表現者には色々な人がいて、それを二つに色分けをすること自体ナンセンスですが、ここでもし問われるなら僕は後者なんだと思います。
置き去りにされながら、それでも遠くを見つめることをやめない人。
その「あこがれ」という源泉から湧き出たものがカタチを帯びることがあります。
ケルアックの文章からは、友人に対する隠しきれない嫉妬と強烈な「あこがれ」が透けて見えます。これは行ったっきりの人には書けないものです。
僕が彼に同調するのは、足を踏み出しながら、それでも結局届かなかったものを文学を通して再び追い求めようとしているからで、僕にとっての絵本制作も、旅から帰って来た自分が、決して帰ることの無い旅人に「あこがれ」、その旅人が見るであろう更なる遠くのイメージに「あこがれ」ることで初めて成り立っていることに気付いたからでした。
描きたいのは目にしたイメージではなく目にしたいと願うイメージ。
届かないからこそ物語り、届かないからこそ描くのです。
芸術は”天才の仕事”というイメージは今でも拭われていませんが、実際のところ、もの作りをしている人は圧倒的に後者のほうが多いのではと僕は想像します。
言葉にならないイメージ、メロディの無い歌、色彩を持った音。あらゆる手の届きそうで届かないものに手を伸ばす芸術家たちは、決してマイノリティではなく、「あこがれ」に焦がれるマジョリティ側の人間のように僕には思えるのです。
だって、本当の意味で芸術に生きている人は、きっと、作る必要なんてないから。
その表情と振る舞いで仲間を魅了し続けたケルアックの友人のように、生き様そのものが芸術で、何一つカタチに遺すこと無く行ってしまう人たち。
きっと、そんな天才たちが、今も知らないうちに生まれて知らないうちに去ってゆく。
そんな旅人のような彼らに、そんな生まれては消えてゆくイメージたちに、恋い焦がれるように今日も僕らは芸術しているんだと、そう思うのです。
海太
*阿部海太『みち』(Kite)2.800円+税
阿部海太 / kaita-abe.com
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