ヘテロトピア通信 第4回
2015.03.26
2014年からはじまった「鉄犬ヘテロトピア文学賞」の情報発信ページ。選考委員ら(井鯉こま、石田千、小野正嗣、温又柔、木村友祐、姜信子、下道基行、管啓次郎、高山明、田中庸介、中村和恵、林立騎、山内明美、横山悠太)によるコラム “ヘテロトピア通信” も更新中。 (題字/鉄犬イラスト:木村勝一)
〈お金のモノトピアにさからって〉Text by 管 啓次郎
ヘテロトピアがさまざまに異質なものの混在する、そして互いが互いをよいかたちで刺激して新たな創造と友愛にむかう場所だとしたら、その対極にあるのはなんだろう。ひとつの支配的な論理にむかってすべてをまとめあげ、その論理自体の自己延長が最優先される世界、社会。そんな社会をモノトピアと呼ぶことにしようか。
モノトピアにもたぶんいろいろなかたちがありうるのだと思う。神が、あるいは王が、最優先されるモノトピアは歴史上たしかにあった。神が死に王が殺された近代社会では、すべての権威がひとつの最強の論理に席をゆずった。その名は、貨幣。お金だ。
お金の本質は「交換権」であり、その最強の属性は「整理力」とでも呼べるものだ。どういうことか。お金はどのような物資とでも、サービスとでも、交換できる。同時に、もともとまったく価値のちがう物や仕事を、とりあえずおなじ軸の上に並べて、価格(本来的に無根拠な)を表示することができる。人は選択肢の多さを「自由」と呼ぶことにあまりに慣れてしまった。それでお金は物に対する所有欲、サービスに対する支配力、「自由」の行使による解放感・自己実現感を、すべてみたすことができる。
その上、都合がいいことに、お金による交換には独特な「クレンジング能力」とでもいうべき力がある。お金に交換されたとたん、物はその履歴を失い、サービスを提供する人はその人格を剥奪される。商品として買われたものがどこから来たのか、誰も気にしない。サービスを提供する人がどんな「私」生活を送っているのか、誰も知ろうともしない。ここで大きな問題になるのは、この「私」と「公」の区分自体、お金というステージに乗るかどうかで決められるという点だ。
現代のわれわれが「世界」と呼んでいるのはお金のモノトピアであり、お金を欠けばそれだけで社会から弾き出される。生きていくための物は手に入らず、労働というサービスのためにみずからの人格と私生活を否定され、お金を介在させた交換によりすべての履歴は洗い流されて、私たちは歴史のない世界に生きることになる(それで、歴史をありのままに見ることなく平気で捏造する連中がのさばる)。お金の回転が世界の最優先事項となるので、経済というジャンルが政治を左右し、各業界や各地方の利益調整の代理人たちが「政治家」を名乗って我が物顔にふるまう。
確実に儲かるからといって、国境紛争や内戦を作り出してはそれをビジネスにする国。外国人労働者に対する露骨なダブルスタンダードを、恥じるそぶりさえ見せない国。原発や武器を輸出するやつらが堂々と政権を握り、一部の者の利権のために自国民に多大な犠牲を強いた過去(および強いる現在)を省みない国。このすべては、お金のモノトピアが生んだ異常な発想の現実化だ。巨大な防潮堤を延々と作って目のまえの海に目をふさごうとすることも、ゆたかな珊瑚礁の海を破壊して他国に基地を提供しようとすることも、その土台にはお金のモノトピアの自己展開がある。
お金はたしかに魅力的だ。物、サービス、選択の自由。そのすべてが一度に手に入る。しかも、それを使う本人の能力や技は、まったく問われない。もちろん、品性も問われない。そんな社会では、子供たちが最初に手に入れる社会的資格は「消費者」という身分であり、それが一生つづく。この身分の行使にあたって思慮も能力も技量も品格も必要でないとなれば、お金を中心にまわる社会がどれだけ愚かなものになってゆくかは、火を見るよりも明らかだろう。お金の追求を中心に組み立てられた社会が、どれほど劣悪なものになってゆくかは、想像するまでもなく周囲を見わたすだけでわかる。
それではこれに対抗する流れを作り出すには、どうすればいいのか。簡単なことだ。お金では動かない、という態度をことあるごとにしめすしかない。お金によって序列化される社会がいかに下らなく、また結局は全員を不幸にするものであるかを、はっきり語るようにしなくてはならない。ところが現実に、社会の集合的な意志の表現の一端であるメディアの多くが、そんな序列をまるで神聖化して扱っているかのように見えるのだから、たちが悪い。
ごく一例をあげようか。毎年、春先になると、大手の週刊誌(日本の一般週刊誌くらいグラフィックなセンスもジャーナリズムとしての感覚もまるで感じられない前時代的なメディアも珍しいが)がこぞって「大学合格者数高校別一覧」を載せたがるでしょう。この季節、まったく暗澹たる気持ちになる。この国民的狂気はなんだろう。受験業界専門誌というのなら、話はわかる。そういうものがあってもいい。だが、一般週刊誌がそろって報道するほどの意味があることなのか。断じてない。あらゆるジャンルで、おなじような位置にあるもの(この場合は週刊誌各誌)が相互模倣の泥沼に陥るという、日本社会の病理の表現でしかない。
ぼくは勉強には、知識には、価値があると確信している。学力には、それ自体、意味があり、価値がある。だがいま行われているような通り一遍の学力テストの「偏差値」によって、まるで人生が決まってゆくかのような幻想をふりまくのは、いい加減やめてほしい。
なぜならこの発想は、「消費者」を第一身分とすることの、正確な裏面だからだ。大学受験生たちは、何かを勉強したいからではなく、そこなら受かるからという理由で学校を選ぶ。学部も何もない。ショッピングと一緒。そしてそのままの発想をもって大学時代を終えて、何も学ばず、そこの会社なら入れたからという理由で会社に入ってゆく。業界も何もない。会社とは、その定義からいって、会社の利益が第一の場所なので(典型的モノトピア)、社員はみごとにその目的に同一化してゆく。自社がやっていることを批判するのは、誰にとってもむずかしいだろう。原発輸出会社や、原発絶対推進電力会社や、リニア鉄道建設推進鉄道会社や、巨大防潮堤建設ゼネコンといった「会社」に入ってしまえば、「一部には批判もありますが」といいつつ自社の活動に全面的に没入することになるのだろう(いうまでもなく、他のどんな業界だって、じつはそういう傾向はあるのだが)。
ただ、偏差値というふりわけの軸をそのまますなおに受けとめてきた、「消費者としての私」以外の想像力のまるでない者たちが、それぞれのモノトピアの論理をなんの疑いもなく行使しはじめることほど、恐ろしいことはない。お金で回転する総合モノトピアは(つまりわれわれが「社会」と呼ぶものは)、疑いなくみずからの論理を実践してくれる人間を、大量生産しようとしている。それは子供時代に、初めてお金をもらって自分が決めたものを買ったときにはじまり、学校教育とその周辺文化を通じて補強され、想像力をマスメディアの内容にゆだねることで完成される。そしてかれらは、お金のない者に対して牙をむき、ほとんど無限のニュアンスをもった差別の網を編み、利権屋たちが描く社会の構図における「トリックル・ダウン」をころりと信じる。なんというあさましさ。
(これに関連して、ぼくがこの世界でもっとも理解に苦しむことについても述べておきます。それはカンニングです。小学生から大学生まで、ほんのわずかな点数を稼ぐために、不正行為をする。方法はさまざま。そんなことして何になるんだろう。ばかばかしいと思わないのか。その背後にある動機は、要するに少しでもいい点をとりたいということにつきる。それがどれほど無意味でむなしくぶざまな考えであるか、考えないのだろうか。そしてその延長として、大学では学部生のみならず大学院生までもが、平気でどこかから盗用してきた文章をつぎはぎして、自分のものとして提出する。まったく非常にとことんどうしたって理解に苦しむ。一時的な狂気にとらわれているとしか思えない。だがその狂気が、かれらにとってはその後も、一生つづくのだろう。カンニングや盗用の余地のない形式で試験をしたり課題を課したりすることはもちろんできるけれど、その形式を考えることすらむなしい。要するに、学ぶことそれ自体を否定する者たちが、学校にいつまでもずるずるといるわけだ。なぜか。消費者としての性癖がしみついているかれらは、学校そのもの、卒業資格そのものを「商品」と見なしているのだ。)
本当のことをいおうか。大多数の人間を不幸にするのみならず、その不幸の極致として貧乏人の命を使い捨てにするのが、お金のモノトピアだ。その受益者たちが、どんな堕落した方向に社会を誘導してゆくかを、この4年間、われわれはいやというほど見てきた。2011年3月11日および12日の出来事と事故を経験したのち、人間社会と自然との関係、人間社会と技術との関係、人間社会の中の人々相互の関係のすべてを、全面的に問い直す決意をしたはずだったのに。だがあきらめるわけにはいかない。
本当のことをいおうか。ヘテロトピアはけっして与えられない。それはわれわれが作り出すしかない場所だ。そのためには歴史とさまざまな場所に関する正確で豊富な知識、そしてそれに基づいた、柔軟で大胆な想像力の動きがなくてはならない。知識と想像力への歩みを怠ってはならない。そしてお金の総合モノトピアがみずからに固執する以上の執拗さをもって、われわれはモノトピアの指令にさからってゆくことにしよう。
A luta continua. 戦いはつづく。
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管啓次郎(すが・けいじろう)
1958年生まれ。詩人、比較文学者。明治大学理工学部教授(批評理論研究室)・
理工学研究科新領域創造専攻教授(コンテンツ批評、映像文化論)。
主な著書に『コロンブスの犬』『狼が連れだって走る月』(いずれも河出文庫)、
『ホノルル、ブラジル』『斜線の旅』(いずれもインスクリプト)、
『本は読めないものだから心配するな』『ストレンジオグラフィ』(いずれも左右社)などがある。
詩集『Agend’Ars』4部作(左右社)は、『時制論』をもって完結。
英仏西語から翻訳多数。ASLE-Japan文学・環境学会代表。
http://monpaysnatal.blogspot.jp/