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ヒロイヨミ社のわたし 3

2014.10.17

ヒロイヨミ 社

ヒロイヨミ社。山元伸子によるリトルプレス。言葉を読むための新しいかたちを求めて、紙や印刷にこだわった冊子などを製作・発行。2014年12月にSBBで始まる展示フェアに向けた創作日記を連載中。

 

あたかも印刷機が差し延べる鏡に映し出されでもしたかのようなかたちでそこに著者の精神が覗かれる。紙とインクが調和し、活字が鮮明で、構成に気が配られ、行揃いも完璧で、そして刷り上りも見事であるときは、自分の言葉と文章が著者にとってまるで新しいもののように思えだす。 
                                   (ポール・ヴァレリー)*

 

 好きな作家の朗読を聞いたことがある。はじまってすぐに、違和感をおぼえた。どうもおかしい。落ちつかない。彼女の声が、耳からこころに届かない。言葉はふわふわと漂い、流れ、やがて跡形もなく消えていった。その声は、自分が思っていたのと、まるで違っていたのだ。声の質も、高さも、強さも、なにもかも。本を読んでいるあいだ、声を聞いているのだ、とわかった。それは、自分の内部にだけ響く声、自分にしか聞こえない声だ。

 ヒロイヨミ社はもともと、好きな言葉を好きなかたちで読んでみたい、という思いからはじまった。あつまってきた言葉をくりかえし読み、書体や文字の大きさや字間や行間など、組み方、レイアウトを決めていく。同時に、どのような紙に、何色のインクで、どんなふうに刷るかを考える。それは、聞こえてきた声を目に見えるかたちにする作業である。
 読みやすく、美しく、ふさわしく、と思っているが、これが難しい。読みやすさは人によって異なるし、あまり美しすぎても人は読まない。見るだけで満たされてしまう。そして「ふさわしい」がもっとも厄介だと思う。その言葉がどのように組まれるべきなのか、著者が正しい答えを知っているわけではない。書かれた言葉は、すでにそれ自体の声を、べつの生命を持っている。自分をできるだけ透明にして、言葉が発する声に、静かに耳を傾けるしかない。
 見なれない、新しいかたちで読んでみたい、という興味と好奇心に、流されることもある。紙も印刷も、それ自体が誘惑的で、おもしろい。いつも夢中になる。試したくなる。これは誰かに頼まれてやる「仕事」ではないのだから、やってみたいことをやらなくてどうする。そんなふうに、自分で自分の背中を押すこともある。
 言葉に向き合って、いつでも不安な状態で、手探りで、紙面を作っていく。書くという冒険によって生まれた言葉を、読むことも組むこともまた冒険なのだろうから、この不安からは、きっといつまでも逃れることはできない。しかし、だからこそ飽きず、やめられないのだ、ということもわかっている。

 活版印刷で刷ることが多い。文字を刻印したいのだと思う。紙というからだに。からだという紙に。すべてははやく流れすぎる。すぐに消えて、忘れられる。「あの中空の雲のやう」。でも傷が残れば、忘れることはない。傷とともに生きられる。
 それになにより、活版で文字を刷ることも刷られた文字を読むことも、どちらも、端的にいって気持ちがいいことなのだ。五感を刺激する、官能的な行為だと思う。活版で刷られた文字をよくよく見ると、輪郭がシャープでなくて、やわらかい。ところどころインキの溜まりや、微妙な濃淡、凹凸もある。そういうところは、人の話す声の曖昧さや不明瞭さにも、どこか通じるのではないか、と感じている。意味がないものにこそ意味がある。印刷のとき、活字をそっと押したり強く押したり、声の強弱も調整しやすい。紙とインキと活字が出会う瞬間、火花が散る。刷られた紙をはじめて見るとき、昂揚する。目と目があって視線が絡まり、見つめあう。いつまでも見ていたい、と思う。

 組まれた活字は凛としていて、版はすこぶる重く(なにしろ余白にも重さがある)、でもすぐにばらばらになる脆さをあわせ持っている。書かれた言葉はそのように、凛として、重く、時に脆くもあるものだ。活字を指定して、組んでもらって校正して、それが印刷所に届けられ、版になってインキが着いて紙に刷られる。無事に刷られるまで、言葉の無事を祈っている。ずっと祈っていたいから、祈っているのが好きだから、これからも、こうやって、本のようなものを作りつづけていくだろう。冊子もわたしも儚いが、言葉は儚いものであるはずがない。

 
*ポール・ヴァレリー『書物雑感』より(生田耕作訳・奢灞都館刊)

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